【Beyond 2020(46)】不登校支援の”プロ”が福島で子どもを見守り続ける理由

NPO法人トイボックス 代表理事 白井智子

1972年千葉県生まれ。東大法学部卒業後、松下政経塾に入塾。1999年に沖縄でフリースクールの立ち上げに参画し、校長を勤める。2002年、日本初の公設民営型の不登校・ひきこもり対策の施設「スマイルファクトリー」を開設、2007年には高校卒業資格がとれるハイスクールを併設。2011年、福島県南相馬市で、発達障がいなどの課題を抱える子どもたちの学習支援などを行う「みなみそうまラーニングセンター」および認可小規模保育施設「はらまちにこにこ保育園」を開設。

ー”あれから”変わったこと・変わらなかったことー

発達障がいの子どもにとっての震災

私はあのとき、一言も発することができず、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。震災発生直後、NPOの仲間たちと現場に入り、現地の関係者から支援ニーズのヒアリングをしていたときのこと。何かしなければいけない。でも、きっと瓦礫の下にはまだたくさんの遺体や行方不明者が眠っているはず。何を聞いていいかわからず、前向きな話が一切できなかった。

2012年に開設した「みなみそうまラーニングセンター」

それでも、私にできることを探そうーー。なんとか立ち直り、縁をいただいたのが南相馬市(福島県)だった。2011年6月から始めた放課後児童クラブへの支援活動を皮切りに、2012年に発達障がいなどの子どもたちが通う「みなみそうまラーニングセンター」を開設。現在も活動を続けている。

特に発達障がいのある子どもたちは、環境の変化やストレスに弱く、災害時も真っ先に影響を受けやすい。今回の震災でも、大人数が集まる避難所や狭い仮設住宅での生活が大きな負担になり、幻覚やパニック症状などを起こしてしまう子も少なくなかった。保育園や学校も、そんな子どもたちのケアに忙殺されていた。

施設内には広々としたスペースがあり、遊具を使って遊ぶことができる。

保育園や幼稚園にもスタッフを派遣し、子どもたちをケア。

私たちは保育園などの現場にスタッフを派遣し、子どもたちの心のケアや保護者の相談業務などを実施。みなみそうまラーニングセンターが完成してからは、少人数での学習支援ができるようになり、施設内の運動スペースで遊具を使って自由に遊べるようにもなった。他にも、みんなでクリスマスパーティーを企画したり、遊園地や博物館に行ってリフレッシュしたり。子どもや家族が少しでも安心して過ごせるように。そんな思いで活動してきた。

かつてないNPOの連携が生まれた

私たちがこうして活動を続けてこられたのは、特にNPOや企業との連携があったからでもある。被災直後の混乱の中で様々な団体・プレイヤーが解決の糸口を探ろうと動き回った結果、立場を越えた数多くの「民民連携」が生まれた。これは、この震災で顕在化した大きな流れの1つだろう。

みなみそうまラーニングセンターの活動は、ソフトバンクや赤い羽根の中央共同募金会などに当初から資金援助を中心に支えてもらっている。私たちにとって、こうした大手の民間企業や団体と手を組むような経験は初めてだった。

NPOのカタリバやフローレンス、チャンス・フォー・チルドレンと立ち上げた「ハタチ基金」もそうだ。これは20年間にわたって被災地の子ども支援を行うための民間基金だが、NPO同士の本格的な連携もこれまで経験したことがなかった。

「みなみそうまラーニングセンター」では少人数の学習支援を実施。

1999年、私は沖縄県でフリースクールの立ち上げに参加し、2年半にわたって校長を務めた。その後、大阪で不登校など学校に馴染めない子どもたちの学習支援事業を開始。大きな転機となったのは2003年。大阪府池田市の市長との出会いをきっかけに、市教育委員会の委託で日本初の公設民営型フリースクール「スマイルファクトリー」を開設。それ以来、不登校やひきこもり、発達障がいなどの課題を抱える子どもたちの支援を続けてきた。

NPOの存在意義。私は東北での活動を通して、そのことを今までで最も強く実感することができた。あのような混乱期でも行政は公平性を求められ、支援が止まってしまうことも少なくなかった。そうしたときに、NPOが専門性を生かし、ニーズに合わせたきめ細かい支援を行う。そうした光景がいろんな現場で見られた。

「制度の隙間からこぼれ落ちる人を助けるために、NPOをやっている」。私たちは10年近くNPOを運営してきていたが、そうしたNPOの役割を胸を張って、確信をもって言えるようになったのは初めてだった。

”心の痛み”と”見えない分断”

あれから7年。みなみそうまラーニングセンターに通う子どもたちは、少しずつ落ち着きを取り戻しつつある。保護者を含め家庭のストレスも減り、徐々に安定した生活を送れるようなってきているのではないか。町の景色もずいぶん変わった。電車や飲食店などが再開し、以前に比べれば住民の笑い声が響き渡るようになった。

でも、目に見えづらい”心の痛み”はまだ癒えていない。特に原発事故の影響を色濃く受ける南相馬は、3つの区(原町区、鹿島区、小高区)の間に避難指示と東京電力の補償の有無などを巡る”見えない分断”のようなものが、少なからず生まれてしまっていると言われる。

それぞれ複雑な事情を抱えているから、やむを得ないことは心が痛いほどわかる。でも、子どもたちは大人の些細な対立や口論を敏感に察知する。そうした環境で長く育っていく子どもたちには、まだまだ息の長い支援が必要だろう。

ーBeyond2020 私は未来をこう描くー

大海の一滴でも、現場の声を届け続ける

不登校支援を始めて約20年。最初は「怠けている子どもを助ける必要があるのか」などと周囲から散々叩かれ、肩身の狭い思いをずっとしてきた。ただ気がつけば、不登校やひきこもりは大きな社会課題となって世間に広く知られるようになり、遂には学校外の教育の場の整備を明記した教育機会確保法が2016年に成立した。

20年前のことを思えば、私が生きている間に法律が制定されるなんて夢にも思わなかった。制度の隙間を埋める活動が、いつか制度そのものになる。地道に続けることで、いつか道が拓けるのだと確信できた瞬間だった。

「みなみそうまラーニングセンター」の運動スペースには子どもたちの笑い声が響く。

NPOの社会的意義は、これからますます高まっていくだろう。しかも、NPO間が連携することで、制度化や目標達成までのスピードもさらに早められるはずだ。それを強く実感したのが、まさにあの東北の震災だった。あのとき生まれた民民連携の動きはこれからさらに加速し、様々な社会課題をクリアする突破口になるのではないか。

私も理事を務めている新公益連盟は、そうした流れの中で誕生したものと言えるだろう。社会的企業やNPOが集まる組織で、行政や企業、NPOなどの多様なセクターの連携、つまり「コレクティブ・インパクト」による社会課題の解決を目指している。文京区と複数の企業、NPOが連携し、生活の苦しい子どものいる家庭に食料を届ける「こども宅食」は、それが実現した事例の1つだ。

そうした社会の変化は肌で感じているが、決して勘違いしてはいけない。たとえ法律や制度ができても、その恩恵を隅々にまで行き渡らせることができるかは別問題だ。むしろ、救われる人はまだまだ一握りだということを忘れてはいけない。

私は、文科省中央教育審議会など国レベルで教育指針を議論する場にこれまで何度も参加してきたが、特に地方の教育現場を見る度に議論と実態との落差に驚く。そのギャップをいかに粘り強く埋めていくか。たとえ大海の一滴でも、現場の声を届け続けることを私はあきらめない。

”東大卒のエリート”が不登校児に言い続けた言葉

私が思い描く理想の社会。それは、多様性を認め合う凸凹な社会だ。幼少期を過ごしたオーストラリアから帰国後、日本の画一的な教育に違和感と反抗心を抱いた私。教育改革にのめり込んだのは、それが原点だった。私にとっては”発達障がい”という言葉すらしっくりこない。そもそもみんな得手不得手があって、凸凹なはず。それをお互い認め、支え合う社会を、教育の中でつくっていく。それが私の使命だと思っている。

多様性を理解する。言葉にするのは簡単だけど、相手のことを100%理解することは難しい。でもだからこそ、人はそれぞれ事情を抱えながら生きていることをまずは共有し、そのうえでその痛みや思いをできるだけ理解したいと思い続けること。そこから、多様性を認め合うやさしい社会ができていくのだと思う。

放課後の学習支援にも取り組んでいる。

教員免許もない私が不登校の子どもを支援すると言い出したのは、まだ20代半ばのとき。子どもたちにとって、私のような”東大卒のエリート”は最大の敵だったらしい。「どうせ俺たちのことなんてわからないだろ?」。最初はみんな、そんな風に敵意むき出しな様子だった。だから、私はひたすら言い続けた。「ごめんね、確かにわからないかもしれない。でも、わかりたいんだ」「どんなことがあっても、絶対に味方だよ」と。

私は今、そんな当時の教え子たちの支えがあるからこそ、こうして前に進むことができている。新しく立ち上げた拠点の運営スタッフは半分が教え子たち。「あのとき救われたから、今度は救う側に回りたい」。そう言って、手伝ってくれる子がたくさんいる。みなみそうまラーニングセンターに通う子どもたちも、将来そうなってくれたら嬉しい。

100%共有しきれない思いを越えて

2017年4月、私たちはみなみそうまラーニングセンターの敷地内に、新たに「はらまちにこにこ保育園」を開設した。0〜2歳児を対象にした認可小規模保育施設だ。また、これまでの子どもたちの心のケアに加えて、放課後児童クラブ(学童保育)での学習支援も新たに始めている。

新たに「はらまちにこにこ保育園」を開設。

2011年3月11日。私はあの日を現場で経験していない。悲しみや苦しみを100%共有しきれない私が、ここにいていいのか。今でもそう思うときがある。でも、地域の人や行政との信頼関係も生まれ、応援してくれる仲間も増えた。新たに保育園や学習支援を始められたのも、保護者をはじめとする地域の人たちや行政からの信頼、協力がなければできなかった。私たちの活動は、これからさらに地域に溶け込んだものになっていくだろう。

だから、この地域の一員として、不安定な子どもたちが少しでも安心できる居場所をつくれるように、これからもここで力を振り絞る覚悟だ。