【Beyond 2020(3)】「誰のためのまちか」を考え続ける。それが僕の生きている実感だ(前編)

臂(ひじ)徹  キャッセン大船渡 取締役

1980年生まれ。筑波大学、筑波大学大学院卒業後、景観やまちづくりを手がける都内の建設コンサルタント会社に勤務。東日本大震災直後、岩手県大槌町にて復興計画の策定を支援する業務を担当、サラリーマンの傍ら、2011年11月に住民と一緒に、一般社団法人おらが大槌夢広場を立ち上げ、「おらが大槌復興食堂」の運営や地域の子どもがまちの将来について考える「こども議会」、まちづくりの担い手を育成する「大槌ひと育て×まち育て大学」など数多くの事業を企画する。その後、まちづくりの計画策定などを手がけるプランニング会社を設立・起業し、大槌町や陸前高田市のまちづくり業務に携わる。2015年8月、大船渡駅周辺地区タウンマネージャーに選出、同年12月には大船渡のエリアマネジメントの推進主体で、官民共同出資のまちづくり会社・株式会社キャッセン大船渡の取締役に就任。

ー”あれから” 変わったこと・変わらなかったことー

「異な者×地域」の東北モデル

私のような「異な者」がこうして地域に入り込んで、一定の役割と責任を与えられ、必要とされていることを考えると、東北の各地域には外部から異質なものを受け入れる「余地」や「間」「冗長性」のようなものが新たに生まれたことがわかる。もともと地域に暮らしていた人たちだけでなく、外に門戸を開くことで、多くのよそ者が入り込み、まちづくりなど様々な分野で活動の幅が広がったり、これまでにない動きが生まれたりした。

ボランティアや地元住民で賑わう「おらが大槌復興食堂」。大槌町では住民らと様々な事業を立ち上げてきた。

震災後、私が被災地に関わらせてもらうようになった最初の場所が、大槌町だった。仕事の傍ら、地元住民の皆さんと一緒に、がむしゃらになって、おらが大槌夢広場を設立し、「おらが大槌復興食堂」の運営や、地域の子どもがまちの将来について議論する「こども議会」、まちづくりの担い手を育てるための「大槌ひと育て×まち育て大学」など数多くの事業を町民たちと企画してきた。それらの活動の中には、残っているものも、役割を終えたものもあるが、「おらが」自体は地域住民が主体となって運営を続けている。

2015年からは、活動の軸足を大船渡に移した。大船渡では当時、「100年後の大船渡人に引き継ぐマチの文化」を掲げ、壊滅的な被害を受けたJR大船渡駅周辺地区を中心市街地として再生させるプロジェクトが本格的に動き出すタイミングだった。それを遂行する「大船渡駅周辺地区官民連携まちづくり協議会」の一員としてプロジェクトの戦略や制度設計を担い、さらにその後、官民出資のまちづくり会社「キャッセン大船渡」の取締役に就かせてもらった。
そして、このプロジェクトの大きな成果として、昨年3月からの第1期まちびらきでは、地元資本のホテルやショッピングセンターが整備され、今年4月の第2期まちびらきでは、新たなまちの顔となる商店街の3つの街区が同時にオープンした。商店街区には、地元事業者が経営する飲食店や小売店がテナントとして入居しているほか、地域の人たちが自由に使えるコミュニティスペースや広場などもある。これらを総称した商業施設「キャッセン」は、まさに地域の賑わいや交流を生む出すための拠点だ。
私たちキャッセンは、この商店街区の整備も担当し、店舗の配置計画や空間デザイン、事業者との出店や賃料交渉に至るまで、地道に続けてきた。
それと同時に、行政や住民、立地企業、商店など多様なステークホルダーを巻き込み、このエリア全体を活性化させるためのエリアマネジメントの取り組みも担っている。

夏祭りには特に多くの人で賑わう「キャッセン」。まちづくりの「大船渡モデル」を象徴する場だ。

このように、まちづくり会社を中心に公民連携によって、まちづくりを進めている仕組みは「大船渡モデル」と固有名詞で語られる可能性を秘めたものだと考えている。
その背景には、投資と回収のバランスのとれたまちづくりのあり方について、地域内の関係者が「CSV」(共通価値の創造)を見据えつつ熟議する過程で、下記の5つの要因が作用していると考える。
(1)元々の地域課題の解決も見据える必要があったこと
(2)津波によって消失した機能をどのような形であれ、回復する必要があったこと
(3)大船渡には、体力があり、かつ過去に経験した津波から勃興した経験を持つ企業が複数存在し、さらに新しいチャレンジを支える姿勢であったこと
(4)行政と民間が円卓で協議する素地があったこと
(5)公民連携による事業推進について、お互いのタスクを取り合うくらい積極的な担当者が揃っていたこと

大船渡駅周辺の中心市街地は、震災前から商業の衰退や人口減少が進行していた。
単なる「復興」を超えて、「100年のまち」をどのようにつくっていくか。上記5つの要因に加えて、さらに私のようなよそ者のアイデアも積極的に取り入れ、地元の事業者や住民たちも主体的に参画しようという機運が高まっているのは、震災後の大きな変化といえる。
事業者との交渉からエリア全体のマネジメントまで、ゼロからその仕組みづくりに携われていることは、私にとって非常に貴重な経験だと考えている。

辿り着いた現場目線の「局地化」

私は今、ようやく地域の課題に対して、現場目線で「局地化」して向き合えるようになっている。

今振り返ると、大槌で活動を始めた当初は「大槌から日本を変える」と意気込み、社会全体にいかにインパクトを与えるかということを強く意識していた。ただ、そうした思いが強すぎたせいか、活動の先に描くビジョンやインパクトと、現実との差異に心の奥底でもやもやと葛藤を抱え続けていたのも事実だ。

しかし、大槌で様々なことを経験して以降、いい意味で肩肘を張らずに、目的意識やそれに基づく活動を局地化できるようになったように思う。社会に対してインパクトを与えるということは、頭の中で考えてかたちにするものではなく、現場で目の前の課題に対して心血を注ぐことの先にあるものだと考えるようになった。そして、大船渡の姿を日本社会や大都市圏という上空から俯瞰的に、巨視的にとらえるのではなく、この地域固有の価値や課題として現場目線で、素直に、ストレートに向き合うことが大切だと思えるようになった。

大槌や大船渡に巡り会わなければ、私は今も会社員を続けていただろう。東京で都市計画や景観検討の業務に携わることにもやりがいは感じていたが、現在の方が仕事を形にすることへの実感は遥かに大きい。それまでの仕事は、対行政の「発注者と受注者」という関係の中での閉じた業務が多かった。今は本来の受益者である「地域」の現場に入り込むことで、大きな責任を感じている。後ろ指をさされたり、バッシングされたりする可能性もある。怖くないかと問われれば、もちろん怖いこともあるが、そういうことも含めて、からだ全体で責任を背負い、向き合うことを「充実」と捉えられている。

「支援慣れ」では何も変わらない

ただ、6年以上経った今、不安(不満?)もある。震災後「これを機に、よりよい地域を」という言葉が異口同音に色々なところで語られ、多くの共感を得てきたが、それが具体的にどんな状態を指すのか、そこまで理解できている人は少ないのではないか。

例えば、キャッセンはオープンから数ヶ月経過し、テナントに入っている各商店の売上げや入込客数は当初想定を上回っており、順調なスタートを切っているという見方もできる。週末の賑わいを見るに、大船渡にこれほど沢山の人がいたのかと思うほどである。

キャッセンが単に「ハコ」をつくる立場であり、「ハコ」ができたから賑わっていると思われるのは若干不本意なことである。それはなぜか?

地方ほど、ハコモノ神話がある。たくさんお金をかけて立派なものをつくれば、それで地域が活性化し、観光振興がなされると信じて疑わない方々が想像以上に多い。前段で述べた「これを機に、よりよい地域を」の「地域」を「ハコ」と捉えてしまっているケースである。

しかしながら、「ハコ」はできた瞬間から地域の負債になる。地域内経済力の低い地域ほど、維持管理負担が大きくなる。だからこそ、キャッセンでは必要以上にウワモノ(建造物)にお金をかけていない。それよりも、「行政依存の体質から脱却し、地域で地域を支える仕組みをどうつくるか?」 「自然とどのように共存し、総和として美しい景観を創出できるか?」 「サインやフラッグ、外構、ライトアップなどの工夫で、どこまで付加価値を創出できるか?」 「住民や事業者がコモンズ(共有財産)として空間を活用し、色付けをしていく余地があるか?」といった自らへの問いかけを大事にしている。

そして、こういう場や拠点の「はじまり」を造ることと、長く維持することには全く別のエネルギーが必要になる。キャッセンは、地域にとってどんな存在なのか。単に空いている土地を埋めるだけのものなのか、ディズニーランドのような存在なのか、それとも地域が100年間、持続的に生き残っていくために必要な「手法」なのか。そこに向き合うことが一番大切なことだ。

6年以上の時が過ぎ、「震災」や「復興」といった文脈だけでは世間の関心が集まらなくなってきている。だからこそ、「外」や「上」から与えられたり、それに頼ったりするものではなく、キャッセンを地域の「コモンズ」(共有財産)として私たち自身がどう活用していくかが問われていると思う。被災地域はこれまで、国の補助金や民間の支援に支えられ、ここまで歩んでくることができた。ただ、無意識のうちにそうした外部の支援を当てにしてしまうような感覚に支配されてはいないだろうか。それをベースに物事を進めようとすることは、震災前と何ら変わらないはずだ。

→後編 ーBeyond2020 私は未来をこう描くー