一度は飛び出した故郷の祭を復活させた男性の夢 「母が生きた『森の前』を守る」

[3.11からの夢] 佐藤徳政 34歳 会社員|岩手県陸前高田市

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東日本大震災と向き合い3月11日を「はじまり」に変えた30人の夢を掲載した書籍『3.11からの夢』とのコラボ記事です。

命があれば、人は動ける

最愛の母を3月11日に失った。あの日、すべての終わりを感じた。

俺は陸前高田の森の前地区に生まれ、高校を卒業したあとは故郷を離れて過ごしていた。

震災の2年程前から「お互いにいつ何が起こるかわからない」と思い、毎日仕事が終われば母さんに電話して、たわいもない話をしていた。職場と自宅は近く、電話しながら帰ることが多かった。アパートの階段をのぼる音が電話越しに聞こえるらしく、俺が「トントントン」と音をならして駆け上がると、母さんは決まって「家に着いたんだね。今日もおつかれさま」と声をかけてくれていた。

そして、3.11が起きた。テレビの映像は衝撃だった。大船渡では車がミニカーみたいに流れ転がっていて、気仙沼は焼け野原。高田は映らなかった。テレビで放送されないということは大丈夫なのかと思ったが、母さんからは依然、連絡がなかった。

なんとか仕事を終えた帰り道、日課になっていた電話をしようとしたが、どうしてもボタンを押せなかった。アパートに着き、階段を上がった。「トントントン」と音がする。でも、聞こえるはずの声がしない。家に着いたとたん涙があふれた。とても苦しかった。何度も名前を呼んだが、返事はない。

二度と会話ができない、会うこともできない、できない、できない、できない…。
「希望を持て」と言われても持てるもんか。「もう終わりだ」と思ってしまいたかった。

翌朝、高田の映像が目に入り絶句した。やっぱり、すべての終わりを感じた。何が起きたのか理解不能な日々が続いたが、ありがたくも仲間や職場の方々が優しく匿ってくれた。心配や迷惑もたくさんかけたのに、まるで息子のように、兄弟のように。

それから半年間、東京と高田の行き来を繰り返し、帰省すべきかどうか葛藤した。

東京に住む兄も、高田に住む父親も「お前が帰って何になる」と大反対だった。何ができるかわからなかったが、とにかく地元がなくなってしまうのは我慢がならなかった。「100%迷惑かけます!でも120%の感動を与えます!」と言って、力づくで押し切り、1年後の2012年3月10日、帰郷した。

やはり、町は「全壊」の言葉そのものだった。津波や地震の被害もそうだが、人のつながりそのものが崩壊してしまっていた。

何よりも心苦しかったことは、町内会がなくなったことだった。正直とてもがっかりした。ご近所同士の関係っていうのは、その程度だったのかと。たしかに、森の前の半数に近い方々が亡くなって、家もすべて流されて、高台に行く人ばかりになれば、この森の前には、だれも住まなくなるかもしれない。でも、俺は、もう何も失くしたくなかった。「森の前」という地域の名前だけでも残しておきたかった。母さんと妹と、ばあさんが生きたこの地域を守りたかった。そして、この町を盛り上げたかった。だからこそ、町内会とともになくなった「祭組」を復活させて、陸前高田で一番活気のある、亡くなった方々への弔いの意味も込められたお祭り「うごく七夕まつり」に参加しようと思った。

そうはいっても、簡単ではない。資金がない、人もいない。父親には「無理だ」と言われた。地域の人たちも大賛成という空気ではなかった。

でも、俺らだけやらねえのは情けねえだろう。

子どもの頃、この祭りのお囃子の練習を通して森の前になじんでいったし、手づくりの飾り付けがされた大きな山車は、森の前に生きる人たちの誇りだったはずだ。

俺は、だれに何を言われようと、諦めは死に値すると思い、否定的な言葉は一切拒絶した。後輩たちには見本を見せたかったし、先輩方にも気づいてほしかった。俺たちが寄り添い、手を取り合うことで大きな輪が生まれ、過去、現在、未来を含めて、命をつないでいくことができる。そう信じて何でもやった。

自分の持てるすべてと、みんなの想いを合わせて復活させた祭りは大成功だったと思う。心から感謝している。でも、俺自身は終始心が張りつめていた。先のことを考えると、笑っている余裕なんてなかった。来年も同じ規模での祭りができる保証もないからだ。

この地域の人にとって「ガレキだらけだった森の前」のイメージを変えられるのは、この祭りの風景しかないと思ったから、2年目も3年目も続けてきた。振り返ると、「山車にのって太鼓を叩きたい」と言った後輩が太鼓を響かせている姿は感無量だった。町内会の先輩には「おかげで目が覚めた」と言ってもらえた。震災以降に出会った人たちが祭りの日に来てくれて、「この日だけでも森の前の住民だ」って言ってくれた。人はみんな、目には見えない大変さを抱えて生きていると思う。でも、大変な時こそ大きく変われる時だと俺は信じている。森の前も、人と想いの集まる場になっていってくれればと思う。

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今でも、母との幸せな時間を思い起こすことはしていない。 涙が止まらなくなるからだ。母との間には何千、何万、何億もの小さいストーリーがあって、1つだけでも書こうとしたが、やはり目に涙が溜まり、思考回路が止まる。思いっきり泣ける日が、いつか来るのか来ないのか、俺にもわからない。我慢しているのかもしれない。その日が来てほしい反面、来てほしくないと思っている。

ただ、母が話してくれた言葉だけはつねに聞こえている。
「あなたが、生き生きしてくれることが、一番嬉しい」 と。

命があれば、人は動ける。俺の夢は、「かけがえのない人たちに笑顔と感動を与え続けること」。それが俺の生き甲斐で、母の願いだから。そして、母と過ごしたかけがえのないこの「森の前」に、幸せの花が咲き続けることを願っている。

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記事提供:3.11からの夢(いろは出版)