「どこに住んでも浪江町民」記憶をつなぐプロジェクトが始動

全町避難が続く浪江町。ふるさとの記憶をつなぐ「プロジェクト浪江」がスタートした。
設立イベントとして2015年3月20日より3日間にわたり、郡山市にて「土と器 大堀相馬焼と暮らしの記憶展」を開催。大堀相馬焼の展示や浪江町物産品の展示販売が行われた。最終日のトークセッションでは馬場町長の挨拶のあと、ふるさとの記憶をつなぐ取り組みについてディスカッションが行われ、会場に訪れた多くの浪江町民、および関係者たちが、登壇者の言葉をくいいるように聞き入っていた。

参加窯元は10窯元。ほとんどが福島県内に工房を構えているが、遠くは愛知県で事業再開した窯元も

参加窯元は10窯元。ほとんどが福島県内に工房を構えているが、遠くは愛知県で事業再開した窯元も

「暮らしの記憶を継承する」という点でプロジェクト浪江が着目した大堀相馬焼は、浪江町大堀地区で生産される焼き物で、1600年頃に誕生、約300年の歴史がある。江戸時代末期には100を超える窯元があり、東北有数の焼き物産地だった。震災前は25軒の窯元が生産を続けていたが、震災により避難を余儀なくされた。2014年12月現在、二本松市のほか避難先で再開した窯元は12軒。今後の展開を摸索しつづけながら陶芸を続けている。

大堀相馬焼を残し、かつ自分たちの生計を立てていくためには浪江町以外の土地で事業を再開しなくてはならない。また浪江町民にとっては、まちの象徴の一つでもある焼き物。この伝統を絶やしてしまうことは、自分たちのふるさとのよりどころを失うことにもつながりかねない。

ギャラリーには震災前と震災後の浪江町の写真展示、浪江町の歌人 三原由起子氏の作品展示、浪江町大堀地区の模型も展示された

ギャラリーには震災前と震災後の浪江町の写真展示、浪江町の歌人 三原由起子氏の作品展示、浪江町大堀地区の模型も展示された

そこで「土と器、大堀焼相馬焼とくらしの記憶展」では「記憶をさぐる」「知る」「生きる」「つなぐ」「伝える」ことをキーワードに、今は帰れないふるさと浪江町の心の象徴として大堀相馬焼をメインに、山形県で事業再開した鈴木酒造店の「磐城壽」、浪江町のB1グルメ「なみえ焼そば」の記録などを展示した。

プロジェクト浪江は、ふるさと浪江町で共に遊んだ幼なじみが中心になって活動している。代表の鈴木大久(ひろひさ)さんは、2014年まで浪江町の復興計画策定委員だった。会議では常に「浪江町に帰還する選択と同様に、帰還しない選択としての政策を作るべき」と主張してきた。帰還しない選択をした町民は、避難先で生活の基盤を作らなければならない。

現在暮らしている南相馬市の自宅にて、鈴木大久さん

現在暮らしている南相馬市の自宅にて、鈴木大久さん

実は代表の鈴木さん自身が家業の味噌製造業「こうじや」を再建中だ。ある工業団地を借りることになり、ボーリング調査で地下水の水質検査をしたところ、味噌造りには合わない水だった。大手メーカーの場所を借りて作ったこともある。しかし出来上がった味噌は「こうじや」本来の味と異なっていた。自身の事業の再開が叶っていない中で、プロジェクト浪江を立ち上げた鈴木さんは言う。「今、自分の事業再開に専念してしまうと、ほかのことができなくなってしまう気がするんです」と。味噌造りに休日はない。浪江町にいた頃も、家族そろって休日にでかけるということはなかった。避難先で暮らしている今、震災前以上に忙殺されることが目に見えている。避難先での事業再開の難しさを自らも痛感しながら、今回の活動を開始したのである。

プロジェクト浪江では、避難先での事業再開を目指している事業者の支援と共に、ふるさとの記憶を残すために、大堀相馬焼だけではなく、食品関係のプロジェクトも進めていきたいと考えている。「どこに住んでいても浪江町民」という町のスローガンのように帰還する選択以外の町民の生き方、暮らし方を摸索し続けていくつもりだ。

震災後、福島県の住民たちは価値観の多様化を認め合うという課題を突きつけられてきた。原発事故によって、ふるさとを離れることを余儀なくされた人たち。「ふるさとに戻りたい」と思うのは誰しも同じだ。しかし諸事情から、戻らない選択をした人たちの方が生活再建が厳しいのも現状である。そこから生まれる感情のすれちがいも起きている。多様な選択をしたもの同士が、お互いの考えを尊重しあえることを期待しながら、プロジェクト浪江の今後の活動に注目していきたい。

文/武田よしえ