[寄稿]見えるもの、見えないもの。そして見えつつあるもの ~浪江町での3年間を振り返る~(後)

8 子どもたちの未来のために

対立の時代を超えて

 町が「帰る」「帰らない」の議論で割れかかっている時に要となったのが、子どもアンケートを通じて見えてきた、子どもたちの想いでした。大人達のこれまでと今を見つめてくれる目。混乱の先の未来を見つめてくれる目。私たち大人は目の前の出来事に一喜一憂して、大事なことを見失っていたのかもしれないと気づかされました。

 子どもたちの目を通して見えた「ふるさと」の価値、「人と人とがつながっているあたりまえ」の価値、「家族が平和に暮らせること」の価値。メーテル・リンクの『青い鳥』のように、私たちが気づかないだけで、多くの「さいわい」が存在してもいます。

 地震・津波の被災地、原発災害も重なった被災地、直接的な被災は軽かった地域、ほとんど影響の無かった地域など、生活する場によって見える地域は異なります。ですが、きっとどの地域にもプライスレスな価値が埋まっていて、単に大人たちには見えていないものがあるのでしょう。それを考えていくと、この被災の中における様々な気づきは、被災地のみに留めておくべきものではなく、価値を見失っている各地の方々とともに分かち合っていくことが大切なのではないか。今、私はそう感じています。

 「対立の時代」「戦いの時代」に私たちは今まで暮らしてきました。誰が間違っていて、誰が絶対的な悪であるか、対立だけに留まる中では「智慧」は生まれず、課題も解決しないままになってきました。そろそろ、対立に留まる時期から、今生きる中で手に取れる課題を、力をあわせて一つ一つ解決していく時期に移ろうとしているのかもしれません。 

「私」からはじめよう

 そんな中で、私たち大人が共有できる数少ないことは、「子どもたちの未来のため」という想いではないでしょうか。これは今の子どもにフォーカスを当てるだけでなく、10年後、20年後、30年後であり、さらに次の世代、その次の世代に引き継いでいくことに想いをはせていくものです。人は部分だけで成り立っているのではなく、生物的にも社会的にも様々な側面を持ち、全てがトータルされた中で暮らしを営んでいます。一つの分野に偏ることなく、様々な視点から「ゆくゆくの子どもたちにとって、何が必要か、何を仕上げていくか、何を残していくか」という目線が、今を生きる私たちに最も求められているのだと思います。

 東日本大震災の当事者というと、狭い意味での被災者に留まってしまうのかもしれません。ですが、東日本大震災、原発災害というものが今の日本の縮図とするならば、「いかに当事者性を持って目の前に課題に対するのか」が、この時代に生きる方々に共通する課題になるでしょう。この震災を通じて明らかになってきた社会課題は、どの地域にも実は含まれた課題でもあるのですから。

 それぞれの暮らしの場、仕事の場、活動の場において、私たち一人ひとりが、その解決のために力を合わせていくこと。「私」からはじめること。小さな活動が、身の回りを変え、地域を変えて、そして各地の仲間達がつながることで、さらに広い地域を変えていく。遠回り間もしれませんが、そのような「手に取れる」活動を通して、住みやすい地域を子どもたち、その後に子どもたちに引き継いでいきたいものです。

9.最後に、私個人としての振り返り

 原発事故が起こった3月12日、家族と別れた私は、孤立した町民の支援に当たるべく、原発が爆発する中、最後に浪江町役場を後にしました。家族と離れ、無事でいるかとの不安はありましたが、妻に娘をゆだね、私自身は町民の方々の支援に没頭していました。

 「怖いので現場を離れたい」そう切実に訴える若い職員もいる中、町民支援のためには私たちが崩れてはいけないと諭し、浪江町の津島地区での孤立無援に近い数日を過ごしました。その後町長の英断により、政府判断よりいち早く全町避難を始め、私はその方々を見送った翌16日にようやく人が暮らす地域に下りることができました。

 その翌日、爆発が続く混乱する状況の中、妻と子がわずかなガソリンにもかかわらず、私の職場に来てくれました。それでも会えた時間はごくわずか。職場の玄関で見送った後に、私の顔には、気づかないうちに涙がつたっていました。心の底で、覚悟を決めていたことをその時改めて気づきました。そして、家族がいることの大切さ、一人で生きているのではないことの重さも同時に感じる機会となりました。これは私自身にとって「見えなかったもの」が「見えるようになったもの」の中でも、最も大切な一つです。

 私自身が「子どもたちの未来のために」という時、その一人には確実に、自分の娘が含まれています。

 職業として、業務としてという割り切り方もあるでしょう。ですが、父親として、この地で活動する公務員として、そして多くの仲間達の協力を頂いている者として、自分だからこそできる「役割」は果たしていきたい。悩むこと、迷うことは多くありますが、そのような「気づき」があったこと、私自身にとっては、この震災を通じた経験の中で得た貴重な「さいわい」の一つとなっています。

 多くの方々にとって、今も、そしてこれからも、身のまわりの世界が平和であることを、心から願っています。(終わり)

前編を読む

tamagawa2_sqw文/玉川啓(たまがわあきら)
福島県庁総務部財政課 主任主査
2010年に福島県庁より浪江町役場に出向。震災前の浪江町では、企画調整課主幹として、志ある町民・職員とともに行革や協働のまちづくり業務に携わる。
そのさなか、東日本大震災が発生。災害対策本部行政運営班長、復興推進課主幹として第一線で災害対応に当たるとともに、町民協働のモデルともなる浪江町復興ビジョン、子どもアンケート、浪江町復興計画の取りまとめに携わる。また各省庁との調整業務、行政と民間を結ぶコーディネーターの役割を担い、震災関係支援者と行政関係者をつなぐ活動も展開。
2013年より3年間の浪江町勤務を終え福島県庁へ復職。身の丈にあった情報共有にも取り組んでいる(Facebook、最大シェア数17,000。フォロアー6,600人)。