[寄稿]見えるもの、見えないもの。そして見えつつあるもの ~浪江町での3年間を振り返る~(前)

(本稿は福島県の玉川職員からの寄稿文です)

福島県浪江町。

あの「3.11」に震度6強の地震に見舞われ、親しみある浜辺の集落が津波に襲われ、その翌日に原発事故による避難、ついには全町避難を余儀なくされたまち。多くの町民が「ふるさと なみえ」と愛するこのまちに、私は震災前後の約3年間、全精力を傾けて関わらせて頂きました。

震災以降、復興に携わる各地の方々、市民の方々との様々な対話の機会がありました。そういった機会を重ねていく中で、それらの場で私に投げかけられた多くの問いは、なみえの問題だけでなく、多くの地域の方々とも共有する意義があることかもしれない、そう感じつつあります。

仲間たちとの間で始まった小さな対話。それは静かに広がり、震災後2年目の3.11には大手新聞社の社説そのものと化していきました。地域の声を社説として伝え抜くという異例のスタイル。筆をとった方の「福島の地から見えつつあることをより多くの方々と共有していきたい」という強い願いを感じずにはいられませんでした。

対話を重ねる中で、私の目から見えたことがいくつかあります。多くの方々が豊かな視点や気づきを持たれていると思いますが、そこに私の気づきという小さな石を投ずることにより、皆さんの気づきや学びがさらに広がる。そんなきっかけになることを願い、このたび筆を執らせて頂きました。そしてこれは、仲間からの問いかけに対する私の応えでもあります。

1.私と浪江町

2010年4月、私は福島県からの出向という形で、妻と娘とともに私は浪江町に赴くことになりました。新しいまちづくりに取り組む浪江町の要請に福島県が応えた形での出向でした。その後様々な悩みや経験を経て、徐々に町内の多くの方々との信頼関係が生まれ、新しい流れがこの地に生まれる、そんな手応えを感じつつあった矢先に震災が発生しました。

震災以降は、私の仕事は震災対応へと一転していきます。政府の支援がない中での全町避難。体育館への一次避難と、県内各地に分散避難している約五千名の町民に約200カ所のホテルやペンションに移動して頂く二次避難。混乱を極める役場業務の運営支援。それら当初の緊急フェーズを経て、2011年の夏ごろからは、徐々に暮らしの再建とふるさとの再生というテーマを扱うようになっていきました。

今までは想像もつかなかった政府各層との直接折衝。現場での対応に追われる職員の方々を支えるために私が関わった仕事でもありました。さらに、分散避難する町民の方々の多くの声を踏まえて、ともにまちのこれからを考え、復興ビジョン・復興計画という形にしていく、そんな住民とのパイプの役割も担うことになりました。

今年3月を持って福島県庁へ戻るまでの約2年間。役場職員、市民協働の支援者、政府、復興支援関係者との調整役、計画策定のコーディネート役、浪江の若者たちの育成役、地域の一人の父親など。その時々、局面ごとに様々な役割を担ってきました。仮に私が私らしい伝え方をできるとすれば、そのような多面的な役割に関わったことが大きいのかもしれません。

2.災害は本当に終わったのでしょうか。

 3.11の地震と津波という自然現象は収束し、原子力発電所も事故直後から比較すれば緊急事態は脱しつつあります。一人の生活者の目線に立てば、災害は終わり、今は復旧のタームから復興に至っていると思っても不思議はありません。事実、被災というものを目にしたり実感したりする機会は大幅に減っています。

 そういった生活実感がある一方、日本では深刻な状況が続いています。それは「避難」というもう一つの災害によるものです。この先進国、21世紀の日本において、約16万人の方々が国内難民状態にあります。自宅に住みたかった。でも住むことができない。約9万人は選択の余地なく、強制避難を強いられています。過酷な原発事故、それに引き続く放射能に対する不安もあり、首都圏から西日本への「自主避難」はいまだに続いています。

特に原発被災地域では「震災関連死」が震災以降、最大の死者を生み出しています。浪江町では地震と津波で約190名の貴重な命が失われ、それをはるかに超える方々が震災関連死として、今も命を失い続けています。公的に認定されたものだけでも300人を超え、避難が続く限り、この数字は確実に積み上がっていくのです。

 私たちの目からは、仮設住宅や借上げ住宅で住んでいる「今の姿」しか目にすることはありません。当たり前にそこに住んでいる、そんな錯覚も生まれつつあります。「目に見える部分」としてはそうなのかもしれません。

でも、私の目からはもう一つの風景がその背後に浮かんでいます。

祖父の代からの歴史ある広い住宅に住み、畑を耕し、なじみの友人と語らい、大切にしてきた地域の行事が共にある、ゆったりとした暮らし。田舎ではあるものの地域を作ってきたという誇りある暮らし。都会での生活に疲れた人が、第二のふるさととしてあこがれる暮らし。私たちの経済では換算できないプライスレスな暮らしがそこにはありました。それは残念ながら「見えない」「見えにくい」ものなのかもしれません。

この生活環境の変化(悪化)は、人の命をひどく蝕んでいきます。つい先日まで元気だったおじいちゃんが、ある日命を落としていく。人の生命力が徐々に弱まっている兆しが多く現れています。この問題は、原発の被災度が低い、宮城県や岩手県でも共通する部分があるのではないでしょうか。

私の目には、いまだに終わっていない震災、苦しみ続ける人々の存在が映っています。普段の生活では見えにくいこと。だからこそ、より多くの方々が共感できるように、事実を共有していくことが必要、そう感じる物事の一つでもあります。