[寄稿]高台移転は未来への贈り物。小泉地区に真のコミュニティを教えてもらった。

(本稿は北海道大学の森教授からの寄稿文です)

津波被害で518世帯のうち266世帯が流出・全壊した宮城県気仙沼市の小泉地区。昨年6月には集団高台移転を目指す協議会が設立、年末には120戸以上の合意を得るなど、スピーディな動きが注目されています。
そのファシリテーションを担当するのが、北海道大学で建築を通じたコミュニティ形成の研究をする森傑(すぐる)教授です。大学時代に阪神大震災を経験し、奥尻島で高台移転調査をした経験がいまの活動に活きていると言います。

「奥尻島でできなかったことを、東北でやらねば」

—教授としてお忙しいなか、気仙沼市の小泉地区で高台移転の支援をされています。なぜ、いまの活動を始めましたか。

大学3年生のとき、関西で阪神大震災を経験しました。当時はボランティアが発達していなかったこともあり、被災者となった私は、その日の生活で必死だったのを覚えています。

当時、強烈に覚えている言葉が「調査公害」です。専門家が被災地を訪れ、調査をして帰る。これが被災者には相当なストレスで、まさに「公害」のようなんです。私は被災者でしたが、大学の研究室が震災調査をはじめたため、リサーチャーとしても活動しました。被災者でもあり研究者でもあった私は、「公害」の意味を肌で感じました。

ですから東日本大震災のあと、私は「東北にはしばらく行くまい」と決めました。災害復旧が目的なら、北海道にいる私より陸続きの関東の方が効率的ですし、何よりも調査公害を起こしたくありませんでした。その結果はじめたのが、当時唯一の高台移転事業だった奥尻島の事例調査です。新聞等で調査したのちに現地を訪問しましたが、「奥尻でできなかったことを東北でやらねば」という強い思いが生まれました。

—奥尻で出来なかったこと、とは?

奥尻島では、何よりも自宅再建が優先されました。2ヶ月半で土地の利用計画をつくり、着工したのは震災からわずか1年後です。東北では3年後と言われていますから、ものすごいスピードです。

私は、この方針は間違っていなかったと思います。被災者にとって、自宅再建は心の支えです。いつ我が家に住めるのかが分かれば、仮設生活も我慢できます。行政は住民の不安とニーズに応えたと言えます。

でも、代わりに手放したものもあります。奥尻では、着工までの1年で、住民説明会はたったの2回しか行っていないそうです。また移転先や地区計画も行政主導で決めたため、コミュニティを持続するという観点は盛り込まれませんでした。「ご近所さんとは回覧板を回すときしか会わなくなった」という声も聞かれました。

また奥尻は当時、人口減少が進んでいました。でもその対策を講じないまま公営住宅を造ったため、いまは高齢化率が非常に高くなっています。復興計画をつくるとき、短期的な計画と同時に、30年後も続く町づくりを考えるべきだったのです。

高台移転は「未来の住民への贈りもの」。個人の引越ベースで進めてはならない

—スピードを重視した結果、コミュニティとしてのパワーを失ったということでしょうか。

はい。奥尻と同じく、東北の多くの地域では、高齢化と過疎化が進んでいます。もしコミュニティの持続性を考えず、高台移転を「個人の引越」ベースで進めてしまうと、50年後に町は残りません。

私が小泉地区をはじめて訪れたのは11年7月でしたが、そのとき私は講演で「まちとしてどう美しく死ぬか」という話をしました。小泉地区も人口減少が進んでいたので、高齢化と過疎化はテーマとして外せないと思ったんです。

—「どう死ぬか」ですか・・・住民の方はどう思われたのでしょう。

実はかなりムッとしたそうです(笑)。でも歴史上、栄え続けているまちはありません。人間と同じで、まちにも老いがあり、死がある。「まちは永遠に続く」という幻想は捨てねばなりません。

そのうえで、どの道を選ぶかが重要です。「余生を楽しんで終わる」という選択肢もあるでしょう。それでもなお高台移転という道を選ぶのであれば、それは子どもや孫世代に町を残すという意思決定に他なりません。ですから私は「高台移転は未来への贈りものだ」と伝えました。これが、小泉地区の方に響いたようです。

—プロジェクトの全体像を教えてください。

住民参加型のワークショップを定期的に行っています。
最初に議論したのは「小泉地区のいいところ」です。町を後世に残すからには、何を残したいのかを明確にしなければなりません。付箋紙に「いいところ」を書いていきました。

最初のフェーズでこだわったのは、模型を出さないことです。家をつくるとき、模型を見ながら話し合いをしますよね。でも目の前に模型があると、議論が各論に入ってしまいます。「うちはこの場所がいい」、とか。

でも、高台移転も建築も手段にすぎません。何をしたいから高台移転をするのか、それを考えることが重要です。小泉地区のなにを残すのか、それを決める場で模型は邪魔なんです。

—模型を出さないとは、勇気ある決断ですね。

参加者には不安もあったようです。模型を出したのは、議論をはじめて3ヶ月後でしたが、その間は私もプレッシャーを感じました。「自分が間違ったら、小泉もこける」と思っていました。

また住民の方には、日々の生活があります。ワークショップのときはモチベーションが高くても、2週間もすると現実に引き戻される。それを繰り返しながら、未来を議論し続ける難しさも感じました。

でも最初の議論にしっかり議論したおかげで、その後はスムーズでした。実は小泉地区の議論には、後戻りがないんですよ。

町づくりの過程には、沢山の意思決定があります。その決定に絶対的な正解はありませんが、「小泉地区としての決定」をしないと失敗になります。個人としては「A」を選びたいけど、小泉地区としては「B」だよね、という議論ができないダメ。小泉地区では、最初の数ヶ月で地区の価値観を共有できたため、ブレない基準ができたのです。

コミュニティとはエリアごとにできるものではない。「共通のアイデンティティ」を持てるかどうかが重要

—小泉地区の価値観を、町づくりにどう活かされていますか。

小泉地区は、もともとコミュニティの強い地域でした。外出するときは家に鍵をかけないし、家に戻ったら冷蔵庫に見覚えのない野菜が入っていたり(笑)。自宅倒壊率がほぼ5割にも関わらず、お亡くなりになった方が少ないのも、誰がいつどこにいるかを知っていて、助け合うことが出来たからです。

このコミュニティの原点を議論したところ、「川」というキーワードが出てきました。地区の中心に川が流れていたのですが、昔はここで会話をしながら洗濯をしていたそうです。その流れで、震災前も井戸端会議の中心は川沿いでした。ですから移転先にも、水辺を作ろうとしています。

また小泉地区の方は、町を行き来するときに公道を使わなかったそうです。これも昔からの習性で、家の裏道づたいに動くのだそうです。ですから新しい計画にも、車が通る公道は1本だけにし、公道から人が歩くための道をつなげる計画を立てています。

—過疎化対策はどうお考えですか。

小泉地区は高台移転に100世帯超の合意がとれています。これが過疎化対策に大きく寄与すると考えます。

もし10世帯程度で高台移転をしても、公共施設やコンビニは成り立ちません。もし30世帯や50世帯あっても、住民が減るといずれは大きなコミュニティに統合されるでしょう。つまり100世帯あれば、他の集落から住民が流入する可能性が生まれるため、町として持続するのです。

震災後、住民主導で進めている高台移転案件で、100世帯以上が合意しているのは小泉地区だけではないでしょうか。

—コミュニティとしての持続可能性が高いのですね。

正直な話、私は小泉地区と出会ってはじめて、「コミュニティ」という言葉を実感できた気がします。建築を通じた町づくりやコミュニティ形成を研究してきましたが、それは学者の知識に過ぎませんでした。

たとえば小泉地区に、小泉という住所はありません。地域のコミュニティは行政区ごとに出来ると思いがちですが、この地区には「陸前小泉」という駅はあったものの、「小泉」という住所はありませんでした。駅の周辺がなんとなく「小泉地区」だったそうです。

でも本来コミュニティとは、住所で括られるものではありません。私が「町としていかに死ぬか」という話をしても、彼らは高台移転をするという意思を崩しませんでした。議論して合意できる力、小泉地区としての意思決定ができる力、これがコミュニティなのだと思います。住所ではなく、アイデンティティで括られるのが本来のコミュニティだと分かりました。

—森先生にとっても、良いご縁だったのですね。

小泉のDNAを持たない人が流入したとき、これまでのコミュニティが維持できるかにも興味があります。
小泉地区では、歩行者と自動車が通る道を分けようとしています。建築の世界ではこれを「ラドバーンシステム」と言います。コミュニティを生むための設計手法として一時期注目されましたが、その成功事例を私は知りません。

でも小泉地区では、機能するような気がします。しっかりとした原風景と価値観があるからです。新しい人に小泉の価値観を伝え、小泉人を増やすことができたら、ラドバーンシステムとしては世界初の成功事例になるかもしれません。

先日のワークショップで「移転先の住所をどうするか」という話になり、「小泉という住所もいいね」と話しました。先は長いですが、楽しみです。

インタビュアー/斎藤 麻紀子

森先生文/北海道大学 大学院工学研究院 教授 森 傑さん(もり・すぐる)
1996年大阪大学工学部建築工学科卒業、2001年大阪大学大学院博士課程修了。07年北大大学院建築都市空間デザイン専攻准教授を経て、10年から現職。東日本大震災直後に、奥尻島の集団高台移転事例を調査。その調査結果がきっかけで宮城県気仙沼市小泉地区の集団高台移転の支援を行う。専門は建築計画・都市計画。1973年兵庫県尼崎市生まれ。