【Beyond 2020(45)】誇れる故郷に。”最強の裏方”が今も相馬にいる理由

復興支援センターMIRAI 所長 押田一秀

1981年、埼玉県出身。広告代理店勤務を経て、ウェディングプロデュース会社を起業。2011年3月、アーティストを連れて被災地でパフォーマンス・イベントを開催する「RESMILE PROJECT」を設立。その後、福島県相馬市に事務所を開設。NPO法人相馬はらがま朝市クラブに参画、地元食材を扱うレストラン「報徳庵」の店主に。2012年8月、「復興支援センターMIRAI」を設立し、復興関連事業の企画制作や産業創出、コミュニティ支援などを実施。2014年には、ボランティア活動が参加条件の世界的な音楽イベント「RockCorps(ロックコープス)」のアジア初開催を福島で実現した。本業は今もウェディングプランナー。

ー”あれから”変わったこと・変わらなかったことー

避難区域の「外」で取り残された町

「この地域を立て直すのはとても大変だ。復興は長い道のりになる」。2011年3月、震災直後に初めて被災地に入った後、アーティストを引き連れて各地でイベントを開催する中、私は特に福島第一原発事故の影響が大きい地域、つまり相双地域(福島県東部に位置する相馬地域と双葉地域の総称)の課題の根深さを痛感した。

長期の活動を見据え、相馬市に事務所を構えたのは同年夏。それからコミュニティや産業創出をテーマに活動を始めた。なぜ避難区域ではなく、相馬市だったのか。それは、福島県の中でも特殊な事情を抱えた珍しい地域だからだ。

福島第一原発から北へ40kmに位置する相馬市。事故後、ここは一度も避難区域に指定されていない。そのため、避難区域のように重大な過疎が起きているわけではない。実際、震災前と人口はそれほど変わっていないのが現状だ。「地元に残れる」という意味では避難区域の住民より恵まれていると言えるが、裏を返せば、ここで生活すること以外の選択肢がないわけだ。

国をはじめとする外からの支援や助成が避難区域ほど手厚いわけではない一方で、主要産業の一端を担う漁業や農業は出荷が制限されるなど、外に物が売れない経済状況は旧避難区域と変わらない。つまり、この地域で暮らす事業者の大部分は、縮小したマーケットでの商業活動が余儀なくされた。

原発事故の影響を大きく受けながらも、外部のスポットが当たりづらい、ぽっかりと穴の開いた場所。それゆえに、復興の流れから取り残されているのではないか。それが相馬に対する、私の現状認識だ。

日本一ソーシャルベンチャーが生まれやすい場所

私が相馬市で続ける活動は、多岐にわたる。地元の水産業者たちと始めた、炊き出しや食品販売のイベント「はらがま朝市」もその1つだ。毎週土日の開催回数は300週を数え、延べ7万人を超える市民が参加(2017年12月時点)。また2012年にオープンし、店主を務めるレストラン「報徳庵」も市民の心の拠り所となっている。

炊き出しや食品販売のイベント「はらがま朝市」。開催回数は300週を数える。

こうしたコミュニティ支援のほかにも、2014年には交流人口を増やす目的で音楽イベント「RockCorps」を誘致し、参加条件とされるボランティアを延べ1万人以上受け入れてきた。地域産業や起業に関する企画・プロジェクトも数多く手がけている。

私のような「よそ者」のアイデアをベースにした、社会課題解決型の事業・プロジェクト。震災によって様々な課題が浮かび上がった東北には、そうした新しいプロジェクトが数多く生まれた。人の生活がままならない切迫した状況の中で、必然的に舞い込んだ外の風は、地元の事業者や住民なども巻き込んで多様な連携が進んだ。東北は、日本一ソーシャルベンチャーが生まれやすい場所へ変わったのだ。

レストラン「報徳庵」では地元の新鮮な魚介類が味わえる。

同時に、私を含め仕事の意味を改めて問い直した人も多かったのではないか。ここでの仕事は地域や人の生活に直結するため、反応をダイレクトに感じられる。例えば、東京では大企業の一社員だったような人がいきなり首長に直接プレゼンし、そのアイデアがまちづくりに反映されるようなケースも珍しくない。こんな地域は全国を探してもなかなか見つからないだろう。自分のスキルや経験を活かし、新しいことに挑戦する余地の大きい場所。それが今の東北だろう。

立ちはだかる産業構造の変化

原発事故の影響を大きく受けながら、避難区域には指定されていない。そんな特殊性をもつ相馬市が今、直面している高い壁がある。

相馬の産業といえば、間違いなく漁業が挙げられる。震災前は豊富な魚種や質のよさから「常磐もの」のブランドで名高く、全国有数の稼げる漁場として知られていた。漁業は地域のプライドそのものだったのだ。しかし、原発事故後は操業が制限され、今も試験操業が続いている。取扱額は大きく減少し、多くの漁師が漁業を離れた。

それにも関わらず、震災後に市内の有効求人倍率は跳ね上がり、しばらくは高い水準を維持していた。土木や建設、除染関係の求人が増えていたからだ。漁師をはじめとする水産業者たちが、そうした仕事に誇りをもって働くことは簡単ではないだろう。相馬市では震災後、こうしたミスマッチが続いている。行政も含め、誰も有効な対策を講じられずにいるのだ。

ボランティア活動が参加条件の音楽イベント「RockCorps」を福島に誘致。

それに付随して、地域の子どもたちの夢の描き方も変わってきているようだ。市の調査によると、高校を卒業後に市外へ進学、あるいは就職したいと考える子どもが増えている。この地域には元来、親の跡を継いで、漁師をはじめとした誇れる生産業者になることを目指す子どもたちがたくさんいた。でも今の状況では、憧れをもちづらいのだろう。

今はまだ、仕事が十分になくても一部で東京電力の賠償が続いているが、それが完全に止まったときのことを考えておかなければならない。そのときに十分な仕事がなければ、それは産業における”第2の津波”になりかねない。そうした事態を避けるために、次にこの地域が何をやっていくのか。地域産業の将来設計を立てておく必要がある。

ーBeyond2020 私は未来をこう描くー

データブックから生まれる地元発のイノベーション

そこで私たちが始めたのが、市内にある全事業所の実態調査だ。2014年、年間700人近いボランティアに協力してもらい、市内の公道をくまなく歩いて事業所の数や営業の有無、事業内容などを調べ、翌年には震災前後の経営状態の変化などをヒアリングした(現在も継続中)。経産省が提供している地域経済分析システム(リーサス)との差異など、国も行政も把握しきれないような現場ならではのリアルな数字や情報が出てきている。2017年度末に、「相馬INDEX2018」として書籍化した。

700人近いボランティアとともに、市内にある事業所の実態を徹底的に調査した。

産業の実態を正確に把握するこうしたデータがあって初めて、次の戦略を議論できる段階に移る。さらにその先には、事業者たちによる地元発のイノベーションが生まれてくるだろう。

「あそこ(の事業者)はこんなことに困っている」「じゃあ、うちはこれを提供できるよ」。そんな風に足りない部分のマッチングが地域内で生まれ、さらにそれぞれの技術を組み合わせて新しい商品やサービスを開発する。そんなこれまでにない連携と発想が生まれやすい状況にしたい。

調査内容をマッピングしたのがこちら。データは書籍化した。

例えば、原発事故周辺地域をロボットやエネルギー産業の一大集積地にしようという「イノベーション・コースト構想」。漁業など一次産業とは程遠いように見えるが、ドローンで魚群を見つけるなど意外なコラボーションが生まれる可能性もある。また外部の企業を誘致する場合にも、正確な情報があった方が誘致の可能性も広がるはずだ。

相馬が誇るこれからの産業。その姿を浮かび上がらせるための取り組みが、これから加速していくことになる。

若者がつくり上げる地域産業の誇り

10年後、相馬に広がっている景色を想像してみる。私が望むのは、この地域の産業が地元の誇りになっていることだ。それもやはり、漁業に代表される生産業や製造業に絡んだものであってほしいし、きっとそうなるだろう。相馬の誇りの1つである魚でいえば、「常磐もの」そのものの復活なのか、それとも形を変えたものになるのかは定かではない。でも、漁業をルーツとする”古くて新しい産業”が生まれ、それが地域の誇りになっていることだろう。

この地域の産業や仕事に、誇りをもてるようになること。それは、故郷が残ることそのものだと思う。この地域の魚食文化をつくってきた先人たちは、自分たちで育ててきたからこそ地域への愛着が深い。ただ残念ながら、今の若者にとっての故郷は「原発被災地」の記憶が強く残る。「ここで生きたい」という執着や「自慢の町だ」という誇りをもちづらい状況にある。

だからこそ、この地域の産業の誇りを、若者たち自身でつくり上げてほしい。それが必ずしも画期的なものである必要はない。自分たちが率先して動く、そのプロセスこそ価値あるものだからだ。その過程と経験が誇りを芽生えさせ、故郷が自慢の場所に変わり、地域が存続する。そういう道をきっと辿れるはずだ。

今後の相双地域全体の復興を考えても、相馬の役割は大きい。隣接する南相馬市(小高区)や浪江町などの避難指示が続々と解除され、本格的にまちづくりが進みつつある状況だ。その過程で、おそらく相馬と同じような課題にぶつかることになるだろう。そのときに相馬の成功事例を横展開できれば、相双エリア全体の復興と前進が期待できる。

”最強の裏方”としての覚悟

相馬に家も借りずに、事務所で寝泊まりする生活を続けて7年近く経つ。半分は意地みたいなところもあるが、いつまでも「よそ者」で居続けたい。地元に馴染みすぎず、あくまで俯瞰の目と発想をもつことが、この地域で活動するうえでは重要だ。そうした思いから、この生活をいまだに続けているのかもしれない。

「最強の裏方」。これが私の理想だ。震災後の東北にはよそ者が発案したプロジェクトがたくさん生まれたが、彼らが去った後に地元だけで継続させることは簡単ではない。手を離した後に、うまく引き継げずダメになってしまうケースも目にしてきた。

そう考えると、今ここで私が身を引くわけにはいかない。自分のスキルや経験をすべてここに落とし切って、地元だけで回るようになる姿を見届けてから、ここを去ろう。それまでは相馬に居続ける覚悟だ。

もう一度誇りを取り戻し、若者が自慢の故郷と思える相馬へ。最強の裏方として、これからも一歩後ろで背中を押しながら、一緒に歩いていく。