【Beyond 2020(33)】原発避難地域のこれから。「2つの復興」に必要なこと

福島県立医科大学 事務局総務課 主幹兼副課長/元・浪江町復興推進課主幹 玉川啓

1971年、福島県福島市生まれ。1994年、福島県庁に入庁。2010年に浪江町役場に出向し、行政改革や、協働をテーマにしたまちづくり業務などに携わる。東日本大震災後は第一線で災害対応に当たるとともに、浪江町復興ビジョンの策定や、子どもを含め全町民を対象にしたアンケートを実施し、復興計画の取りまとめに携わる。また、各省庁との調整業務、行政と民間を結ぶコーディネーターの役割を担い、NPOなどの支援者と行政関係者をつなぐ活動にも奔走。3年間の浪江町勤務を終えて2013年に県庁に復帰し、総務部財政課に配属。2015年4月からは、出向先の福島県立医科大学に勤務している。

ー”あれから”変わったこと・変わらなかったことー

「市民協働」が新しいステージへ駆け上がった

「市民協働」のステージが変わり、その動きが飛躍的に進展した。あの震災を境に生じた社会、そして東北の変化を表すとき、私はこのことを最も強く感じる。

震災前に語られていた「市民協働」は多くの場合、その言葉とは裏腹に、あくまで地域づくりの主体は行政が担い、市民はそれに協力する。そういった考え方だったように思う。ただ、震災後に私たちが目の当たりにしたのは、市民自身が能動的に立ち上がり、小さく、ときには大きく、主体的にまちづくりに関わる姿だった。

行政はあくまで地域を支えるアクターの一部であり、市民や自治会・町内会、NPO、事業者などのそれぞれのアクターが小さな努力を積み重ね、その総和が地域や社会を成り立たせている。「協働」の概念が、そうした新しいステージへと駆け上がったのだ。

原発事故によって全域が避難指示区域に指定され、全住民が避難を余儀なくされた福島県浪江町。当時、町役場に出向していた私も含め、復興への道のりで最も大事にしたことの1つが住民との対話、そして住民と住民との対話、多様なアクターによる「協働」だった。

玉川さんは浪江町の将来を照らす「復興ビジョン」と、その後の「復興計画」の策定などに携わった。

その最たる例が、町の「復興ビジョン」の策定だ。私たちは高校生以上の「全町民」(全世帯ではなく)を対象にした避難生活での悩みや今後の願いなどに関するアンケート調査を実施。さらに、小・中学生に対しても「子どもアンケート」を行うなど、町民1人ひとりの揺れ動く思いに向き合った。

震災後から約1年後の2012年4月、復興理念や方向性を共有する「復興ビジョン」をとりまとめ、さらに町民を中心に100人の委員による議論を重ね、同年10月に復興計画を策定した。これもまた、本来の「市民協働」のかたちが具現化された事例の1つだろう。

原発避難区域のまちづくりは、これから本格化

あれから、まもなく7年が経過する。今の震災復興の現場を見ていると、これまで最前線で課題解決に向き合ってきたリーダーたちに、疲労感が見え始めてきた印象がある。

超人的に突っ走ってきたフロントマンたちだからこそ、周囲はどうしても大きな期待を抱いてしまいがちだ。ただ、彼らも家庭など様々なものを背負って生きている。彼らを特別視し、彼らだけに復興への期待を一身に背負わせてしまってはいけない。孤立感を感じないように、気持ちよく走り続けてもらうにはどうしたらいいだろうか。

会議やイベントなどのオフィシャルな場だけでなく、彼らが気軽に本音を打ち明けられるような機会をつくるのは、1つの手だろう。何も難しく考える必要はない。心許せる仲間たちで定期的に飲み会を開くとか、そういう些細なことでいい。

同時に、彼らの後進を育てる必要もある。特に原発事故の影響で復興が遅れがちな福島は、岩手や宮城に比べて外部人材の流入にタイムラグがある。避難指示が解除されて1年も経っていない地域もあり、まちづくりはこれから本格化していく段階だ。

「もう7年経ったから自力で歩めるのでは?」と突き放すのではなく、むしろ今こそ、改めて人材マッチングの仕組みを強化する必要があるのではないか。今奮闘しているフロントマンたちがさらに5年、10年と走り続けられるように、彼らを取り巻く人材の輪を広げていくことが必要だろう。

2つの「復興」がイコールにならない

福島県民、特に双葉郡(浪江町、双葉町、大熊町、楢葉町、富岡町、広野町、葛尾村、川内村)をはじめとする避難区域、避難解除区域の住民は、今も複雑な心情を抱えたままだ。この7年間は「長くて、あっという間で、でも長かった」。そう感じている人が多いのではないだろうか。

それは、先が見えない中で悶々と日々を過ごす生活から感じる「長さ」と、一方で避難によって生活環境が激変したことなどから、振り返れば「あっという間」に感じる月日。ただ、やはり故郷の再生が果たしてどこまで進んでいるのか、進展を実感しづらいことで感じる「長さ」。異なる時間の流れが混在し、うまく「今」を咀嚼できずにいるように見える。

後進に当時の体験を語る玉川さん。町民説明会などでも前面に立ち、丁寧に対話を重ねた。

原発事故の罪深さと福島特有の復興の難しさが、そこにある。「復興」を生まれ育った故郷だけでは語れないのだ。彼らには、故郷と避難先の2つの「復興」がある。

例えば、避難先で家を建て、仕事も始め、子どもが進学する。その一方で、生まれ育った地域の風景は同じスピードでは変わっていない。2つの「復興」がイコールにならない。そんなもどかしさがある。これは、県外を含めた数ある被災地域の中でも、原発周辺地域が抱える特殊性と深刻性だろう。

ーBeyond2020 私は未来をこう描くー

帰還率には表れない「関わり人口」に光を当てよう

人の生活や経済活動が一度すべて破壊された地域で、新たにまちをつくっていく。これは非常にチャレンジングな試みで、長い道のりになる。だからこそ、まずは人々の生活の灯火を再び灯す。そうした小さな一歩を積み重ねることが大切だろう。

そのうえで、私は問題提起したい。それは、住民帰還率に対する考え方だ。避難先から「帰る」「帰らない」の二者択一と、そこからはじき出された数字だけで復興の進捗を測ろうとすることは、いかにも表層的ではないだろうか。私たちは、新しい視点をもつべきではないか。

仮設商店街「まち・なみ・まるしぇ」。特に昼時は多くの客で賑わう。

2017年3月末に、一部の帰還困難区域を除いて避難指示が解除された浪江町。解除対象となった約1万5000人のうち、実際に帰還したのはわずか3.3%にとどまっている(2018年2月現在、復興庁調べ)。この数字を物差しにして、「復興は進んでいない」と決めつけることは簡単だ。

でも、私が重要視しているのは、「関わりのある人口」だ。避難先で暮らしていても、故郷と接点をもっている人がどれだけいるか、一時的であれ帰還頻度がどの程度あるのか。その「関わり度合い」が大事なバロメーターになると思う。

例えば、年間通して1度も帰らない人と、年に数回でも故郷の空気を吸い、住民と顔を合わせ、ときには行事に参加する人。両者には大きな違いがある。たとえ細い糸でも故郷とつながっていれば、いつか故郷に戻るタイミングが訪れるかもしれない。子育てが一段落したとき、定年退職したとき、そういう人生の節目で帰還を決断することは十分あり得るはずだ。

2017年、7年ぶりに伝統行事「十日市祭」が地元で復活した。

青空の下、祭りには多くの人が押し寄せた。

「3.3%」。私自身、低い帰還率を目にするのは正直つらい。ただ、目線を変えれば光も見えてくる。浪江町では、待望の仮設商店街「まち・なみ・まるしぇ」が2016年10月にオープンし、翌年には伝統行事「十日市祭」も7年ぶりに地元で復活した。そして2018年1月、新たに一般社団法人まちづくりなみえが設立され、4月からまちづくりに関する様々な事業を始めていく(※現在、スタッフを募集中

小さなことに見えるかもしれないが、全町避難を味わった当初は想像すらできなかったことだ。人が住むことさえ許されなかった時期を思えば、よくここまで漕ぎ着けたと思う。たとえ少なくとも、人の営みを取り戻そうと尽力する人がいる。たとえ小さくても、離れ離れになった町民がつながる接点をつくる取り組みがある。私たちは改めて、そういう小さな芽に目を向けたい。白か黒かの二択ではないグラデーションの部分に、もっと光を当てよう。

子どもたちに与えてもらった宿題

「もとのなみえ町にもどっていてほしい」「みんなが安心してくらせる、前と同じ浪江町」。浪江町にいたときに実施した子どもアンケートに並ぶ言葉の数々が、常に私に対して「ちゃんとやっているか」と問いかけてくる。子どもたちが大好きだった浪江の文化や風景を、未来へどう引き継いでいくか。私たちは、子どもたちに大事な宿題を与えてもらった。

小・中学生を対象に実施した「子どもアンケート」。故郷への思いが詰まった言葉は、玉川さんの原点だ。

忘れられないエピソードがある。2000年の火山噴火によって全島避難を経験した伊豆諸島の三宅島(東京都三宅村)。その住民から話を聞く機会があった。4年半近くに及んだ避難指示が解除された後、島で暮らす住民には大きく3つのパターンがあるという。元の住民と移住者、そして幼少期を島で過ごした子ども世代だ。3番目の子ども世代は、噴火当時はまだ幼かったため、島で過ごした記憶や実感が薄い。だが、両親や祖父母から「三宅はこんなところだよ」と話を聞いて育った。そしたら、大人になって「島で暮らしたい」と故郷へ戻っていったという。

これは驚きだった。私たちはそれまで、元住民と移住者の2つの層だけで議論していた。私たち大人の故郷を思う気持ちが、子どもに受け継がれていく。そのことを教えてもらった。いわば、上から下へ紡いでいく「縦のつながり」。故郷再生を考えるうえで、これは重要なカギの1つになると思う。

つい最近、小学生の作文コンクールの記事を目にした。その中で、浪江町出身のある子どもが「将来は浪江に戻って、幼稚園の先生になりたい」と綴っていた。彼らが成長し、大人になったときに故郷で夢を叶えられるように。その舞台を整えることが、原子力災害を経験し、今を生きる私たち大人の責務ではないか。少なくとも私は、そう考えている。

21世紀の社会課題をここから解決する

これから私たちが迎える本格的な高齢化・人口減少時代は、社会に想像以上の過酷なインパクトをもたらすだろう。国を中心にその備えを進めているが、今準備している手立てで果たして乗り越えられるのか。私には大きな不安が残る。

だからこそ、この被災地の社会的な価値は大きい。人口流出など数十年先の社会課題をまさに今実感している場所で、この7年間に生まれた課題解決へのチャレンジや困難に立ち向かうリーダーたちの知恵は、今の備えでは吸収しきれない人口減少のインパクトを軽減させ、日本を支える手立てになるのではないか。特に、世界でも類のない地震と原発事故の複合災害を経験した福島は、言葉に尽くせない痛みを伴ったからこそ、21世紀の社会課題をここから解決していく。そんな地域になってほしい。

私自身もその1人として、行政の立場から貢献できる仕事に目一杯力を注ぐとともに、復興のフロントにいるメンバーと行政をつなぐパイプ役として、フロントのメンバーたちが最大限力を発揮できるような環境整備も続けていく。同時に、避難区域となってしまった故郷で、子どもたちがまた以前のように希望をもって生きられるように。1人の大人として、そのフィールドをつくる責務を全うしたい。

(※)2018年4月に業務を開始する一般社団法人まちづくりなみえは現在、「地域づくりコーディネート」を専門に担当する契約社員8名を募集しています。詳細はこちら

浪江町における復興ビジョン策定など、玉川さんの過去の寄稿記事はこちら(前編 後編