【Beyond 2020(30)】弱者の声は聞こえているか。震災7年で忘れかけているもの

NPO法人遠野まごころネット 理事 多田一彦

1958年、岩手県遠野市生まれ。1981年、遠野市役所入庁。退職後、民間企業勤務や行政書士事務所の開設を経て、地元・遠野でリゾート施設「柏木平レイクリゾート」を経営。東日本大震災後は、2011年3月28日にNPO法人遠野まごころネットを結成。全国のボランティアや救援物資の中継拠点として被災地支援に奔走した。仕事づくりやコミュニティ支援をテーマに様々な活動を展開。障害者の就労をサポートする「まごころ就労支援センター」(大槌町、釜石市)や、地域住民らがバジルやラベンダーを育てる農園「はーぶの郷」(大槌町)の運営、津波の後に残った稲穂から栽培した「大槌復興米」の販売、被災した学生に奨学金を給付する「まごころサンタ基金」などに取り組んでいる。2017年10月、遠野市長選に出馬するも現職に及ばず敗北。

ー”あれから”変わったこと・変わらなかったことー

全国の人々とつながり、助け合う東北

震災後私たちが目指してきたのは、被災した東北を単に震災前の元の状態に戻すのではなく、よりよい地域・社会を新たにつくり上げることだった。私が考える新しい社会とは、1人ひとりがその人らしく暮らせるための居場所があること。子どもも大人も、高齢者や障害者などの社会的弱者も、みんなが必要とされ、安心して暮らせる社会だ。

2011年3月28日、私たちは全国のボランティア団体のネットワークとして、遠野まごころネットを立ち上げた。当時、全国から多くのボランティアが現地に入っていたが、情報が錯綜する中、統率がとれておらず連携が不十分だった。遠野市は、被害が大きかった沿岸部まで車で約1時間。その地の利を生かして、全国のボランティアや救援物資の中継拠点の役割を果たしたのだ。瓦礫撤去や家屋の片付けなどの緊急支援を行うとともに、次第に活動の軸足を雇用・仕事づくりやコミュニティ支援へと移し、地域が経済的に自立できるようなかたちを目指してきた。

「まごころ就労支援センター」では、ラベンダーを栽培するなど障害者が様々な活動をしている。

例えば、障害者などの社会的弱者を対象にした「まごころ就労支援センター」(大槌町、釜石市)、その利用者や地域住民などが利用する農園「はーぶの郷」(大槌町)の運営だ。これらは、障害者などが復興から取り残されず、地域のみんなが自らコミュニティをつくれるような環境が必要。そういう考えで取り組んでいる。「はーぶの郷」ではラベンダーやバジルなどを育て、バスソルトなど加工品を開発・販売する6次産業化を行っている。最近は、釜石と遠野でぶどうを栽培し、ワイナリーを開設しワインづくりに取り組んでいる。

同センターの利用者は手芸品も数多く手がけ、販売してきた。

他にも、津波後に残った稲穂を育て、復興のシンボルとなるよう「大槌復興米」として商品化したり、被災した学生に奨学金を給付する「まごころサンタ基金」を立ち上げたりしてきた。

なにも私たちの活動に限ったことではない。震災直後、困っている人に手を差し伸べ、年齢や立場などを越えてみんなで助け合うシーンが東北中に広がった。ボランティアに参加した人や、震災復興のプロジェクトを立ち上げる人、苦しい中でも前向きに生きようとする現地の人たちなど、多くの人たちが社会や地域と向き合い、行動する。私たちは、そうした光景を目にした。

今の社会は震災前への逆戻り以下

ところが、あれから6年以上経った今、私のいる遠野や東北、そして社会は変わっただろうか。残念ながら、ちっとも変わっていない。震災以前への逆戻り、いや、逆戻り以下になってしまっている。私の目には、そう映る。

社会や地域に対して立ち上がった人の多くが、どうやら日常の渦の中に飲み込まれているのではないか。もちろん、今も熱心に復興や地域づくりに取り組んでいる人はたくさんいる。ただ多くの場合、それは同じような価値観をもった仲間同士が集まってイベントを開催し、それで満足しているような世界に見える。もちろんそれ自体を否定するわけではないし、必要なことの1つだ。でも、道路や住宅などハード整備が進み日常が戻っていく中で、何か大切な視点が薄れてきてはいないだろうか。

ーBeyond2020 私は未来をこう描くー

地域に「弱者」の視点が欠けていないか

私にとって地域とは、元気な人や同じような価値観・レイヤーの人たちだけでつくるものではない。子どもや高齢者、障害者など弱い立場にいる人や、貧しく苦しい生活を送っている人なども含めて、みんなでつくり上げるものだ。

「はーぶの郷」でハーブ栽培に挑戦する参加者たち。加工品も開発している。

この世の中には、声を上げる余裕がないほど困っている人がたくさんいる。私の地元・遠野にもそうした境遇にある人は多い。

年金では暮らせない。在宅の要介護者を抱えていたり、自分が病気で働けなかったりする場合は、1日を食べていくのがやっとで、冠婚葬祭にお金を包めないし、税金も払えない。そういう人たちへの想像力は、果たして働いているだろうか。彼らが少しでも希望を見出せるような社会や地域へ向かっているだろうか。私には、そう思えない。

津波後に残った稲穂を使って育てた米は「大槌復興米」として商品化。

少なくとも震災直後は、そうではなかったはずだ。目の前の困っている人を、みんなでなんとか助けようとした。あのときのことを、忘れてしまっているのではないか。

確かに、支援や活動のフェーズが変化する中で、その目的や性質は少しずつ変わっていくものだ。ただ、いくら時間が経とうとも、みんなで支え合う気持ちや想像力を失ってはいけない。自分たちだけの世界や場所で希望を見出そうとするのではなく、どん底にいるような弱い立場の人にも思いを馳せ、ときには手を差し伸べて助け合うことが必要だ。道路や住宅などハードの整備が進み、これから課題はどんどん見えづらくなっていく。だからこそ、見えにくくなってしまった存在に目を凝らす視点をもつべきでないか。

希望とは、不安を取り除くことだ

ゼロをプラスにすることだけが、希望ではない。マイナスをゼロにする、つまり不安を取り除いたり、小さくしたりすることもまた、希望だ。

年金、介護、仕事、育児。そうした日々の暮らしや生活の将来不安を少しでも緩和させることなくして、本当の意味で希望ある地域・社会は実現できないだろう。

私が生まれ育った町、遠野。人口減少、少子高齢化、そして経済が縮小する中で、市政はもっと市民の暮らしに予算を割くべきだ。そう思い、私は市長選に出馬した(2017年10月投開票、結果は現職に敗れる)。市政の現状打開を目指し、声を上げたくても上げられない人たちの代弁者として立ち上がったのだ。希望を新たにつくることだけでなく、不安に耳を傾け、それを少しでも和らげる。そうして初めて、1人ひとりが必要とされ、その人らしく暮らせる社会が実現できるはずだ。

「遠野を変えなければいけない」。市長選には敗れたが、その思いはますます強くなっている。「どうにかしてくれ」。街頭から、そういう切実な声をたくさん耳にした。選挙に敗れたあの日から、私は次のスタートを切った。遠野を元気にするために、曲がったところを正すために、私なりにできることを、最後までしっかりやっていきたい。

助け合いの積み重ねが社会をつくる

ちゃんと呼吸をしよう。大きく息を吸い込んで、脳に酸素を回して、考えてほしい。自分たちの損得ではなく、大切なことは何なのかと。社会に対して、私はそう問いかけたい。

被災地を100人超のボランティアサンタが訪問するクリスマスイベント「サンタが100人やってきた!」も継続して実施している。

見えないものや違う立場、異なる考え方を、100%理解することは難しいかもしれない。でも、しっかりと息を吸って、頭の中に酸素を回しておく。そうすれば、想像力は働くはずだ。困っている人の存在に目を向け、手を差し伸べる。その糸口は、常に心のどこかにもっておいてほしい。

震災直後に目にした、誰もが助け合う姿。その1つひとつの連続と積み重ねが、地域や社会をつくり上げているはずだ。子どもや高齢者、障害者などを含めて、あらゆる人たちが助け合い、なるべく不安を感じずに安心して暮らせる社会。震災の先にあるべき未来を、私はあきらめない。