【Beyond 2020(28)】ここは俺たちの町だ。その意思が”本当のコミュニティ”をつくる

NPO法人@リアスNPOサポートセンター/いわて連携復興センター 代表理事 鹿野順一

1965年、釜石市の和菓子屋の長男として生まれる。高校卒業とともに上京し、大学で広報・メディアを学ぶ。その後、実家を継ぐことを決意。和菓子屋を営む傍ら、2004年にNPO法人@リアスNPOサポートセンターを設立し、商店街の振興や町の活性化に奔走する。震災で大事な家族を失うも「前よりいい東北をつくる」と奮起し、救援物資の配達や仮設住宅の見回りなど住民側に立った活動を数多く実施。また、外部の支援団体やボランティアなどとの橋渡し役として活躍した。2011年4月には、NPO法人いわて連携復興センターを設立し、県内および全国のNPOと連携して情報発信や中間支援、雇用創出などの活動に奔走した。現在も釜石市を拠点にコミュニティ・まちづくり活動を継続。また、熊本地震の被災地でも地元NPOの支援を行っている。

ー”あれから”変わったこと・変わっていないことー

市民なき「空中戦」になっていないか

あれから7年近くが過ぎた今、釜石が「俺の町」ではなくなりつつあるかな、というのが正直な気持ちだ。震災から3年経ったあたりから「そうなったら嫌だな」という思いが、現実になりつつある不安を感じている。どこか「他人の町」になってしまっているのではないか。そんな危機感がある。

それは、町全体が進んでいく復興と、自分が理想とするイメージの間にある「温度差」や「隙間」からきているのかもしれない。

釜石は、震災直後から外部の数え切れない支援をいただいて、やっとここまで歩んでくることができた。新しい仕組みや人も入り、今では外部のモノや人、サービス、情報などを巻き込んで町を活性化させようという「オープンシティ戦略」が市の基本方針になっている。

ただ、震災後に入ってきたそうした新しい仕組みが、この地域にもともとあった文化や慣習とちゃんと結合しているだろうか。仕組みを動かす行政など「上」のレイヤーの人たちが「こういう風に進めます」と言っているだけで、市民不在でまちづくりを進めるような「空中戦」になってしまってはならない。

「製鉄の町」として栄えた釜石は、歴史的に外に開いたまちづくりを行ってきた。

釜石には、新日鉄の製鉄所が栄えた時代を筆頭に、外部の人たちと交流しながら町をつくってきた歴史がある。今回のように外からいろんな人が出入りすることに拒否感はないが、私の祖父や父の世代と比べると、「人と人とのつながり」が希薄に映る。商店街が地域の経済とコミュニティの中心だった昔は、そこでの商売などを通じてゆっくりと時間をかけながら、人間関係やコミュニケーションが生まれていったように思う。

実際、例えば震災前に地元経済やコミュニティの中枢を担ってきた商店の店主や、商工会議所青年部の中心人物などは、まだ町に戻ってきてない人も少なくない。彼らがもたらす経済的なインパクトは小さいかもしれないが、みんな地域のキーマン・町の担い手だった人だ。そういう人たちを含めて、本当の意味で地元の人たちと協働するような絵がなかなか描けていない。

新しい町は「自分たちでつくる」

震災を経験して、多くの市民に主体性が生まれたのは確かだ。人は大抵、自分の生活に直結しないことには興味や関心が湧きづらい。自分とは関係のない「どっかの話」で済ませてしまうのだ。ただ、私たちはそういう「どっかの話」が身に降りかかってきたわけだ。つまり、自分事として捉えるアンテナが少し立ったのだ。

ただ、7年近くが経過し、町の景色は随分変わった。被災の爪痕も見えなくなってきている。復興公営住宅に入って仕事も始めてと、段々と平時の生活が回り始めた人が増えている。もちろんそれはいいことだが、一方で「この町はどうなっていくんだろう」という関心が薄れてきているのかもしれない。

鹿野さんは従来から、NPOなどの市民活動をサポートしてきた。

釜石がどんな新しい町になるのか。それは10年、20年後を生きる市民が評価することだと思うが、それは「自分たちがつくった町」という実感が伴った姿でないといけない。外からあてがわれたモノになってしまうと、「いいか・悪いか」を無意識のうちに判断したり、選んでしまうはずだ。

復興公営住宅を例に挙げよう。完成する前は「早く入居したい」と思っていたはずなのに、いざ完成すると「イメージと違う」とか「行きたくない」といった意見が出てくるケースがある。完成までのプロセスに自ら関わっていれば、仮に多少の不満があっても「しょうがないな。うまく使っていこうぜ」と前向きになれるはずだ。

外からの支援には本当に感謝しているし、今も釜石に強い思いで関わってくれる人の存在はとても心強い。せっかくこの町のことを真剣に考えてくれているのに、それが市民の関心や思いと離れてしまっているとしたら、持続するのは難しいだろう。決して批判や悪い話をしているわけではない。今は葛藤の時期で、だからこそ両者をつなぐための仕掛けが必要だ。

ーBeyond2020 私は未来をこう描くー

市民と外部をつなぐ懸け橋に

私は、市民と外部の双方をつなぐ懸け橋になりたい。そのため少し前からは、震災前から取り組んでいた市民活動の中間支援という原点に立ち返り、「何かやろうぜ」と声を上げる人たちのサポートに力を注いでいる。

2017年11月に釜石市で開催した「地域の未来を考えるためのNPOフォーラム」

復興とその先のまちの姿について、大船渡・陸前高田と地域を越えて議論を交わした。

具体的には、新たに大船渡市と陸前高田市の地元NPOと連携し、広域的に市民活動をバックアップしようと動き出している。互いにリソースを共有し、提供するサービスを充実させるのだ。行政区域を越えて市民活動の輪を広げ、人やモノが流動的に動くようになれば、地域に新たな循環が生まれるのではないか。それが、上のレイヤーの人たちが空中戦から「地上戦」に降りてきたときの「居場所」になると思っている。こちらからパラシュートの着地点を示して、「ちょっとこっちに降りておいでよ」と誘導する仕掛けづくりだ。

同時に、私たちのように地域に密着して活動する団体・人にも強調したいことがある。それは、地震から立ち上がろうとしている熊本に足を運び、共に汗をかいてほしい。私は、東北で経験したことや培ったノウハウを共有するために、継続的に熊本を訪ねている。現地に行くと、私たちも「あのとき、こういう気持ちだったな」と忘れかけていた当時の記憶が蘇り、「だったら今、必要なことは何だろうか」と自分たちの現在進行形の活動を問い直すきっかけになるはずだ。

「コミュニティ」の意味を問い直そう

ところで、「コミュニティ」の意味を知っているだろうか?復興・まちづくりを進めるときに必ず出てくる言葉だが、どういう意味合いで使っているか、周りの人に聞いてみてほしい。きっと、同じような答えは返ってこないと思う。

震災後、被災地には突然、あっちこっちから「コミュニティ」という得体の知れないカタカナが降り注いできた。人によって定義が違うから、議論が噛み合わない。ずっともどかしい思いを抱えていた。ただ、それが最近になって「こうなんじゃないか」という考え方に行き着いたのだ。

それは、「帰属意識」や「共通の価値観」といった言葉で言い換えられるのではないか。柔らかく言えば、「なぜここにいるのか」を問い、「自分の意思でここにいる」と強く意識することかもしれない。

米ロサンゼルスにリトル・トーキョーという巨大な日本人街がある。1880年代に日本人が北米大陸に移住し始めたのが起源のようだが、第2次世界大戦の前後、そこは在米日本人の安全を確保するためのコミュニティだった。そこには「安全性」という共通の価値観があり、「なぜそこにいるのか」と問うことで生まれる帰属意識があった。

復興の過程で叫ばれるコミュニティは、例えば復興公営住宅など「抽選で当たったから、たまたまそこに住んでいるだけ」のような状態を指しているケースが多い。それなのに、いきなり「コミュニティが重要だ」などと言われる。「何のためにそこにいるのか」という確固たる概念が抜け落ちているから、コミュニティが形成されづらくなっているのではないか。

くまもと災害ボランティア団体ネットワーク(KVOAD)主催のみなし仮設支援イベントにて。鹿野さん(左から2人目)は地震後の熊本を定期的に訪ねている。

時が流れ、リトル・トーキョーは今、「安全性」という当初の共通意識はあまり意味を持たなくなった。世代交代が進み、若い人も少なくなっているという。それでも、現在まで脈々とコミュニティを維持し続けている。つまり、コミュニティは維持するためにその価値観を進化させる必要もあるのだ。

他方で、私たちの地域も高齢化・過疎化が進み、それまでコミュニティやビジネスの中心的な役割を担ってきた商店街が衰退し、コミュニティの機能がどんどん低下している。ここで改めて、コミュニティの持つ意味を見つめ直す必要があるのではないか。これは何も、震災後の東北だけに必要なことではない。日本全国のまちづくりやコミュニティ形成に置き換えても、同じことが言えるだろう。

震災10年を見据えて

私自身は、震災前からずっと「ここは自分たちの町だ」という思いで動いてきて、今もそれは全く変わらないし、これからも変わることはないだろう。まずは、「この町で何が起きているのか」と興味をもつことから始めよう。そうすれば自発的な意思が少しずつ芽生え、私が理想とする市民1人ひとりが「俺/私の町」と思える姿に近づけるのではないか。

私は当初から、年齢を考えると機動力を効かせてガンガン走り回れるのは、震災から10年が勝負だと思ってきた。少なくともあと3年は、まだまだ釜石のために突っ走る覚悟だ。そして、どんな状態であろうとずっと釜石の人であり続ける。