【Beyond 2020(23)】「震災前」の壁が決壊するとき。起業家支援20年でとらえた到達点

NPO法人ETIC. 理事 事業統括ディレクター 山内幸治

1976年、神奈川県生まれ。早稲田大学在学中にETIC.の事業化に参画。1997年に起業家型人材の育成とベンチャー企業支援を目的とした長期実践型インターンシッププログラムを開始。2000年、ETIC.のNPO法人化に伴い、事業統括ディレクターに就任し、全国各地のコミュニティ・ビジネスを支援。東日本大震災後の2011年3月14日、復興に尽力する地域のリーダーや起業家を支援する「震災復興リーダー支援プロジェクト」を発足。同年5月から、現地の経営者やリーダーを補佐する人材を派遣する「右腕プログラム」を開始。このほかにも、人材育成・投資を中心に数々の復興支援プロジェクトを展開。全国10の自治体と連携して地域での起業家を発掘・支援する「ローカルベンチャー推進業議会」や、新卒一括採用に代わる学生の就職プログラム「Venture for Japan」などの立ち上げにも参画。

ー”あれから”変わったこと・変わらなかったことー

1人ひとりが「社会のクラスメイト」になった

小学校には、保健係や図書係などの様々な「係」がある。社会を「学校の教室」という小さな単位に例えた場合、あなたは「何係」だろうか?震災後、多くの個人や組織に芽生えたのは、そうした社会におけるそれぞれの「役割の再定義」だったのではないか。

あれだけの大きな災害を前に、数え切れないほど多くの人がボランティアに参加し、そうでなくても津波被害や原発事故のショッキングな映像をテレビやインターネットで目の当たりにした。あの瞬間から、1人ひとりの心の中に何かが根付いた。それは、自分の生き方や仕事の仕方を丁寧に見直そうという感性であり、その結果、自分たちも社会の生態系やシステムを構成する一員であるという当事者性や自覚が芽生えた。社会の「クラスメイト」となり、どんな「係」、つまり役割を担うことができるのか。それを改めて定義したのだ。

震災から6年半が過ぎた。当然だがボランティアの数やメディアの報道は減り、ともすれば「あのときの熱い思いはどこへいった?」といった見方もあるかもしれないが、1人ひとりの心の中に根付いた火は消えることなく灯り続け、いま社会の様々な現場で表出し、じわじわと広がっている。

目的を外に開いて生まれた連携と協働

僕ら自身も、社会における役割をこれほど強く意識したことは今までなかった。震災の現場で様々な復興支援の動きがある中、僕らは「右腕プログラム」にその役割を見出した。現地の経営者やリーダーの補佐役となる右腕人材を派遣するこのプロジェクトは、2011年5月の開始以降、首都圏や東北出身の20〜30代を中心に延べ250人を送り出した(2017年1月現在)。現地リーダーの経営や活動を支え、また派遣された人自身が現地で起業するようなケースも少なくない。

「右腕プログラム」を通じて現地の経営者やリーダーをサポートする右腕人材を数多く送り込み、現地の経済活動を支えた。

他にも、日米間での民間リーダー同士の交流やアイデアの共有などを目的とした研修ツアープログラムや、新たな東北の担い手を増やしていくための「東北オープンアカデミー」など、人材育成・投資に関するプロジェクトを中心に様々な活動をしてきた。僕らがもつリソースと復興現場や社会のニーズが、これほどガチッとはまるような感覚は初めてだった。

首都圏を中心に、復興支援に乗り出した企業もまた、大きく変わった。それは、組織の論理や理屈ではなく、現場で必要とされているニーズと向き合い、そこを起点に動く姿。目的を売上げや利益ではなく広く社会や地域に置き、さらに人と人との関係性から始まる物事の進め方だ。震災後、企業の看板を背負いながらも「自分」という固有名詞で現場に入り込み、経営陣を突き動かすような社員がたくさん現れた。企業による復興支援活動は山ほどあったが、本当に現場から必要とされ、今も活動を続けている企業に共通するのは、特定の「人」が現地と真正面から向き合い、組織として柔軟に意思決定したケースだった。

自分たちの存在意義や役割を組織の内側ではなく、社会という開かれた外側に置くことで、何が生まれたか。行政や企業、NPOなど多様なプレイヤーによる「連携」や「協働」が実現しやすい土壌が生まれたのだ。

社会のシステムをデザインし直す

言うまでもなく、「連携」や「協働」はこれからの社会を占う重要なキーワードだ。右肩下がりの経済がトレンドの時代において、豊かさや安心をどう育んでいくのか。例えば財政破綻した夕張市を例に挙げるまでもなく、あらゆる公共サービスがもはや国や行政だけでは担いづらくなってきている。企業にとっても、これまでのように単にプロダクトやサービスを開発するだけでは売れない時代だ。だからこそ、互いに支え合い、多様なプレイヤーを巻き込みながらこれまでとは違う新しいマネジメントやガバナンスの仕組みをつくる必要がある。「社会のシステムをデザインし直す」ということでもある。その仕組みやモデルの発明や実験が、震災後の約6年間で東北のあちらこちらで湧き起こっている。そうした新しい社会システムを生み出す「種」や「点」の集積率は、全国でも東北はずば抜けて高いエリアになっているだろう。

例えば、宮城県女川町が震災後に発足した地元のNPO法人アスヘノキボウとロート製薬と実施している予防医療・健康増進プロジェクトはその1つの例だろう。これは、町が抱える医療費の増大や生活習慣病率の上昇に対して、健康チェックやセミナーの開催、町民が健康データを競い合うプロジェクトを実施するなどして、医療費を減らし健康的な町にしようという取り組みだ。ロート製薬が健康測定などのノウハウを提供し、まちづくり・起業支援事業などを行うアスヘノキボウが町民を巻き込んだマネジメントを担っている。3者が互いのリソースを持ち寄って、地域の課題解決に取り組む新しいマネジメントのかたちだ。

僕らは1993年のETIC.設立当初から、社会起業家を筆頭に内発的動機や当事者意識をもって社会と向き合う個人を輩出し、それが人の生きがいや幸福につながる社会や組織が広がることをめざして活動してきた。そういった1人ひとりの渇望感を今ほど強く感じたことはない。そのうえで、社会システムを再定義しようという機運がすさまじい勢いで高まっていることを強く実感している。

ーBeyond2020 私は未来をこう描くー

新卒で地方ベンチャー→首都圏企業のキャリアモデルを

ただ、まだどこかにそのブレークスルーを阻む分厚い「壁」がある。例えばそれは、「売上げ」や「利益率」に対するプレッシャーなのかもしれない。企業でいえば「イノベーションを起こせ」と言うくせに、すぐに「3年以内にどれだけの売上げをつくれるのか」といった議論が出てくる。短期的な営業目標や旧態依然とした組織体制。そういった慣習や呪縛のようなものが、イノベーションを阻む蓋になって覆いかぶさっているのだ。行政の単年度予算主義や、政府資金への依存度の高さ、2年単位での人事異動なども、右肩上がり経済時代のシステムだ。

その「蓋」を壊していけるか。じわじわと外へ溢れ出て、抑え切れないような状態にしていけるか。そこにどれだけ迫れるかが今、問われている。

その一手として、僕らはNPO法人アスヘノキボウや複数の大手企業らと一緒に、新卒一括採用に楔を打ち込もうというアクションを起こしている。この「Venture for Japan」は、新卒の学生を地方のスタートアップや中小企業に2年間送り込み、そこで社長の右腕や経営幹部として経験を積んでもらうプログラムだ。若く優秀な人材を一斉に、かつ大量に囲い込む今の採用制度は若者のチャレンジを阻んでいないだろうか。むしろ知らない土地へ飛び出してチャレンジや失敗を繰り返し、刺激的な経験を積んでもらった後に就職・採用活動を行う。これは学生自身の成長機会になるとともに、企業にとっても多様な人材を採用できるチャンスではないだろうか。こうした多様性がクリエイティブな発想を生み出し、組織の力を育んでいく可能性が高いと考えている。「右腕プログラム」をはじめとする東北での活動経験から、この必要性と有効性は確信している。

震災を機に芽生えた強い当事者性や社会にコミットしようとする火を、会社や組織の都合で途絶えさせてしまってはもったいない。それが発露できるような機会をどれだけ増やしていくか。僕らはそれを一生懸命やっていきたい。

未来予測から未来意志へ。2020年を社会変革元年に

多くの物事や問題は、いろんな事情や立場が複雑に絡み合っている。決して正論だけで事態を動かせるほど簡単ではない。でもだからこそ、結局は小さな1つ1つの積み重ねが重要なんだろうと最近痛感している。1つずつ打ち破り、1つずつ新しい社会システムをつくっていく。その芽は、震災後の6年間で急激に増えた。その継続とともに今求められているのは、横のつながりで学び合い、共有する関係性や機会をどれだけ増やせるかだろう。

宮崎県日南市で2017年2月、ローカルベンチャー推進協議会は参加自治体による合同合宿を開催した(Photo by Tsuyoshi Wada)

その手応えを強く感じている取り組みの1つに、2016年9月に立ち上げたローカルベンチャー推進協議会がある。発起自治体の西粟倉村(岡山県)のほか、東北では釜石市(岩手県)や石巻市(宮城県)、気仙沼市(同)など全国10の自治体が民間団体と連携しながら、起業家の発掘・育成のエコシステムを育て、5年間で総額約50億円の経済効果を生み出そうというプロジェクトだ。地域おこし協力隊の戦略的な活用や、民間人材の自治体への登用、ふるさと納税などの新たな資金調達など、各地が新たな仕組みを創意工夫し、それが他の地域にも伝播している。つながり、学び合うことで1つの巨大なパワーとなり、一気にスピードアップする。その可能性を今、ひしひしと感じているところだ。

2018年1月、ローカルベンチャー推進協議会で各地の成果や進捗を共有しようと「ローカルベンチャー・サミット」を開催した。

「未来予測から、未来意志へ」。未来を「予測」するだけでは、ワクワクするような未来は描けない。それを「意志」に変え、ポジティブで新しい社会をつくっていく。僕らは東京五輪・パラリンピックが開催される2020年をマイルストーンに、そんな未来社会へのイノベーションを生み出すためのプラットフォーム「Social Impact for 2020 and beyond」を新たに立ち上げた。NPOや行政、企業、クリエイター、研究者などが業界や地域を越えてつながり、これまでとは違う多様な角度からソリューションモデルを見出す場だ。これもまた、震災後に表出した社会変革の動きを加速させるための仕掛けの1つだ。

2017年12月に開催した「Social Impact for 2020 and beyond」。全国から約700人が集まった。

2020年は震災から約10年という節目の年でもある。このタイミングを、社会システムや人の生き方が進化するきっかけの年にしたい。東京五輪・パラリンピックは世間にとってわかりやすいマイルストーンだ。これを利用しながら、開幕までの残り約1000日間で社会変革の種をできるだけ多く仕込んでいく。人口減少や超高齢化の影響は、2020年以降に今よりも大きなものになる。だからこそ、東京五輪・パラリンピックをゴールにするのではなく、むしろそこまでに準備・仕込みをし、2020年代に備えていきたい。

震災のレガシーは新しい社会をつくること

さて、レガシー(遺産)とは何だろうか。先日開かれた「Social Impact for 2020 and beyond」のイベントで、文科省職員で東京五輪・パラリンピック組織委員会に勤める河村裕美さんがそれを「当たり前になること」と話していたのが印象に残っている。

震災後に湧き起こった新しい社会システムへの変化の種。それを1つずつ増やしながら、さらに全国へ波及させていく。やがて頭上に覆いかぶさる蓋が決壊し、気がつけば「当たり前」になっていく。東日本大震災のレガシーは、そこで生まれた変化が「当たり前」になる新しい社会をつくることなのだろう。

震災発生後の2011年夏に亡くなった、せんだい・みやぎNPOセンター代表理事の加藤哲夫さん。NPOの役割について生前に語ってくれた最後の言葉が、今でも強く僕の心の中に残っている。加藤さん曰く、「NPOはこれまで既にある課題、つまり傷口に絆創膏(ばんそうこう)を貼るような仕事だったが、本来は社会のあり方をどう提案し、つくっていけるかが重要なんだ」と。傷口は見えやすいが、社会のあり方は複雑かつ構造的な問題を孕んでいるため特定しづらい。でもその解決の糸口を探ることこそ、僕らの役割なのだと教わった。悲惨な震災を経験し、しかしそこから新しい社会のあり方のモデルが生まれ、レガシーとして社会に根付いていく。震災を乗り越えて、社会が変わった。そう言われるような社会をつくっていくことに、一歩ずつでも進んでいきたい。