【Beyond 2020(19)】相馬の漁師がつなごうとする伝統と文化、磨こうとする地域の宝とは

沖合底引き網漁船・清昭丸 船主 菊地基文

1976年、福島県相馬市生まれ。大学卒業後に帰郷すると、亡き父の後を継ぐように漁師になる。東日本大震災と福島第一原発事故後は、約1年に及ぶ操業自粛、また試験操業が続く中、漁師の誇りや浜の文化を取り戻そうと水産加工品の開発・販売を開始。鈍子(どんこ)をつみれにした「どんこボール」を県内外のイベントや商談などで売り歩く。2015年、地域の漁師仲間たちと食べ物付き情報誌「そうま食べる通信」を発刊、共同編集長に就任。現在も若手を中心に浜の漁師たちを束ねるリーダー的存在として、水産加工品の商品開発や観光ツアーの企画などを精力的に行っている。

ー”あれから”変わったこと・変わらなかったことー

プライドをかけて、海へ出るだけではない漁師に

海へ出て魚を獲るだけだった漁師から、水産加工品の開発や販売など2次・3次産業にも手を広げるようになったこと。それが、震災前にはなかった大きな変化だ。

相馬の漁業は全国屈指の水揚高を誇っていたが、原発事故後はいまだに試験操業が続き、出荷可能な魚種が制限されている。

震災と原発事故がある前まで、福島県沿岸地域の漁業は沿岸・沖合漁業としては全国屈指の水揚量を誇り、他の地域に比べて若い漁師も育つ「稼げる」漁場だった。豊富な魚種が獲れることから「常磐もの」というブランドとして高く評価されていた。俺たちの原釜漁港も、父親たちの稼ぐ姿やいい暮らしぶりに憧れて漁師になり、そうした若い漁師同士の「どんどん獲ってやる」という競争意識がぶつかり合う。そういう刺激的な港町だった。

そんな俺たちの仕事場は、震災と原発事故に根こそぎ奪われた。多くの漁船が失われ、漁師も減った。そして、放射能汚染への恐れから1年以上に渡った操業自粛、そして今も続く出荷制限と試験操業。「腕一本で生死をかけて海へ出て、稼いでくる」。俺たち漁師は、その醍醐味を失ったのだ。単に水産業だけの問題ではない。町の景色も一変した。ここで獲れる魚を扱う小売店や料亭、旅館など、地域全体の経済にも影響が広がり、活気がなくなっていった。東京電力からの営業補償、瓦礫撤去や除染作業などがあったから、漁に出なくても震災前と同じくらい稼ごうと思えば稼げた。でもそこには、自分の腕一本で海へ出て稼ぐ。そんな漁師としての誇りはなかった。漁師としてのプライド、そしてこの町の漁文化を取り戻そう。俺はすぐに、そう決意した。

相馬名物の鈍子をつみれにした「どんこボール」。ふわふわとした独特の食感が魅力だ。

県内外のイベントに出展して「どんこボール」をPR。漁師の菊地さん自ら、販売に奔走した。

そうしてまず取り組んだのが、相馬の食文化には欠かせない鈍子(どんこ)のつみれを商品化した「どんこボール」だった。鈍子は相馬の大衆魚で、昔から嫌ってくらい食べて育ってきた。でも、原発事故後は水揚げができなくなり、食卓やスーパーからその姿は消えてしまっていた。ゼロから商品開発を勉強し、鈍子は北海道などから買い付けて地元で加工。「NO DONCO NO SOMA(鈍子がなくちゃ相馬じゃない)」をキャッチフレーズに、全国各地のイベントや商談で売り歩いた。2014年には、東北の被災3県の名物料理を集めた「復興グルメF-1大会」で優勝した。

地域全体に広がり出した相馬漁業のブランド化

今、こうした水産加工品の開発は、地域全体に広がってきている。「どんこボール」は「とにかく何とかしたい」と個人の思いから始まったことだが、今は新たに相馬双葉漁協(相馬市)で6次化推進協議会をつくり、若い漁師や浜のお母さんたちとチームを組んで「浜の漁師飯・浜の母ちゃん飯推進プロジェクト」に取り組んでいる。浜で親しまれてきた料理を加工商品にして、ブランド化しようという挑戦だ。俺はこのプロジェクトリーダーになった。

「潮目イナダのトロ味噌和え」をはじめ、加工品の開発・ブランディングに積極的に取り組んでいる。

4つのチームに分かれて、約1年かけて商品を練った。「馬鹿うまめし」と名付けたブランドの下、開発したのは「沖なまこのしょうゆ漬け」と「潮目イナダのトロ味噌和え」「まる蟹の蟹味噌」「烏崎のアヒージョ」だ。例えば「潮目イナダのトロ味噌和え」だが、イナダは大量に水揚げされる一方で安価で取引されている。これを価値ある商品に変えようというものだ。販促用のパンフレットや動画、テーマ曲もつくった。これらは今、商品化の最終段階に入っている。このプロジェクトは来年度も実施する計画で、前向きな取り組みが随分と目に見える形になってきた手応えがある。

漁師や加工業者などが協力して、安い魚に価値をつけてブランド化する。商品開発の可能性を広げるこうした取り組みは、今までになかったことだ。

魚は町の「血液」。血を通わせ観光客を呼ぶ

そして、現在はこうした水産資源を核にした観光振興にも携わるようになっている。漁業はこの町の基幹産業で、地域の人たちは魚で生計を立ててきた。人間に例えると、魚はこの町の「血液」だ。震災後はその血液が回らなくなり、旅館や飲食店などにも観光客が来なくなってしまった。昔は若い兄ちゃんたちがナンパをしていたような場所が、今は閑散としている。

「観光を盛り上げよう」「観光資源をつくろう」と、観光業者をはじめ行政や商工会なども巻き込みながら、町ぐるみで観光の企画づくりに挑戦中だ。各事業者から中堅クラスの若いリーダーが集まって、定期的に企画会議を開いている。それが実を結び、12月3日に新たな観光資源づくりを目的とした「浦ほたるイルミネーションプロジェクト」を実施した。これは、風光明媚な松川浦沿いに蓄電式のLED電球を設置し、夜になると自然に電球が灯り出すというものだ。初年度の設置数は1200球と小さい規模だが、市内の子供たちや観光客が毎年付け足していくことで今後どんどん増えていく、いわば成長型の観光資源となっていくだろう。

また、俺たち漁師自ら観光業者と一緒にツアーも企画、実施している。参加者に漁を体験してもらったり、鮮度を保つために獲った魚の血を抜く「神経締め」を船上で見せたり、晩御飯には釣れたての魚料理を食べてもらったり。今後もユニークな企画をどんどん立ち上げて、この浜に多くの観光客が練り歩くかつての活気に溢れた景色を取り戻したい。

「おもしろい、ワクワクするから」。新商品の開発や観光ツアーの企画など、すべての取り組みの原動力はこうした思いから湧き起こっている。表向きは「震災によってブランド力がゼロになったから、どうにかしないと」とカッコつけて言うことが多い。もちろんその思いも強いが、一番核になっているのは「俺自身が楽しいから」だ。その姿を見た周りの人たちに「おもしろそうだな」「一緒にやりたい」と感じてもらう。そしたら仲間が増えて、さらに楽しくなっていく。それは俺が小さい頃に、この町に広がっていた光景そのものだ。こういう「真面目に遊ぶ」ような感覚を大事にしている。

ーBeyond2020 私は未来をこう描くー

ここにしかない「田舎臭さ」を磨いていく

この浜の文化や風土は、ここにしかないものだ。だから、そういう「田舎臭さ」をどんどん磨いていく。俺自身は、そういう地域のあり方が好きだ。

若い人たちが立ち上がって、まるっきり新しい町や文化をつくる。全国の地域を見渡すと、そういう取り組みが多いように見える。でも、俺は違うな。ここでしか食べられないもの、ここでしか出会えない人…都会から見ればそれは「田舎臭い」ことに見えるのかもしれないが、俺たちがそれを失ったらそれこそ武器がなくなってしまう。東京の真似をするのではなく、この浜にしかない文化を磨いていく。それが結果として、外から見たときに新鮮に映る地方の魅力になるはずだ。全国の地域にもそれぞれのよさがあるはずだ。新しいモノや情報ばかりにとらわれていると、本当はいいものなのにどんどん埃をかぶって埋もれてしまうだろう。あえてもっと「田舎臭さ」を掘り起こした方がいいと思う。

「人間」も同じではないだろうか。ここ福島県も、浜通り・中通り・会津地方で人間性が驚くほど違う。みんなマネキンみたいに同じになるのではなくて、それぞれの個性をもっと磨いたらいいんじゃないかな。浜通りの俺らの地域には個性的な人がたくさんいる。周りからは「協調性がない」と言われたりするけど、それがこの地域の文化だと胸を張って言いたいよね。

10年後。「常磐もの」の復活か、新しいブランドの誕生か

6年半経った今も、出荷制限と試験操業は続いている。本格操業の見通しもまだついていない。でも、だからと言って嘆いても仕方がない。これから本操業を迎えたときに、それまでと同じくらいの水揚量・漁獲高を取り戻すにはどうしたらいいか。復活と再興に向けた準備を今からしておく必要がある。仮に今までと同じ水揚量を確保できても、「福島産」に対してどれほどの魚価がつくかはわからない。だからこそ、新しい価値をつけて売る仕掛けが重要になってくるだろう。今取り組んでいる水産加工品の開発は、その一例なわけだ。

共同編集長を務める「そうま食べる通信」では、消費者と太いパイプでつながり、ファンを増やしている。

消費者との交流を大切にしたい思いから、漁体験などのツアーにも力を入れている。

俺が共同編集長をしている食べ物付き情報誌「そうま食べる通信」も、その1つだ。福島産の食材を敬遠する人はまだいるが、「福島産」ではなく、「菊地さんから買いたい」。そうやって信頼してくれる「1人」から、少しずつファンを増やしていくことが重要だと思っている。目の前の1人をどれだけ興奮させられるか。そこに全力を注いだ先に、「私も食べてみようかな」と共感の輪が広がっていく。そういう1人の個人と直接つながる関係性も大事にしていきたい。

例えば10年後、この浜はどんな姿になっているだろうか。本操業が始まり、震災前と同じように船も海に出て、さらにこれまでになかったような新しい水産加工業者も生まれていると思う。獲るだけで終わらないチャレンジングな漁師も、きっと増えているだろう。そして、この浜の水産業も新たなブランドに生まれ変わっているのではないか。震災前に有名だった「常磐もの」はこの浜の先代たちが長い歴史をかけてつくり上げたものだ。この町の血が体に流れている俺たちの世代にも、それはできるはずだ。「常磐もの」の復活なのか、はたまた新しいブランドの誕生なのか。いずれにしても、この浜に全国屈指のブランドが生まれている。そんな将来を見るのが楽しみだ。

先代の生き様を、今度は俺が見せる番だ

俺が大学卒業後に帰郷したのは、父親や祖父の世代が楽しそうに暮らしていたからだ。俺も同じように、ここで楽しく暮らしていきたい。だからこそ、今度は俺が若い世代に楽しく生きる姿を見せる番だ。その背中を見た若い世代や子どもたちが、「おもしろい町だな」と思えるように。

本操業が始まったら、また命がけで海へ出ているだろう。そして、何よりこれからもワクワクするようなことをどんどん仕掛けていきたい。この町には今、ある伝統が蘇ってきている。原釜地区の神社で行われる神楽だ。俺が地元に帰ってきた当時はメンバーが高齢化していて廃れ始めていた。幼少期に見ていた活気ある神楽を蘇らせたい。そう思ってメンバーに入り、これまでずっと活動してきた。その甲斐があって、今この神楽には10〜20代の若い人たちがどんどん参加するようになっている。神社の周辺は津波で家などがすべて流されてしまい、今は人も住めない場所になってしまったが、毎年神楽のときは大勢の人が集まる。この盛り上がりが呼び水となって、市内の別の地区でも「原釜に負けらんねえ」と若い奴らが地元の神楽や祭りに関わるようになってきている。

この地域に受け継がれてきた伝統や、先代から教えてもらった生き様を、この町の将来を担う次の世代の子どもたちに引き継いでいく。それも、俺自身が楽しみながら。俺はずっと、このスタンスを曲げずに生きていく。