【Beyond 2020(10)】もう一度温かいコミュニティをつくり、夢だった漁師として生きる

一般社団法人はまのね 代表理事 / 一般社団法人おしかリンク 理事 亀山貴一

1982年、宮城県石巻市蛤浜で生まれる。宮城県水産高校、宮崎大学、石巻専修大学院を修了後、母校の水産高校に教師として勤務。東日本大震災で壊滅的な被害を受けた故郷の蛤浜を再生するため、2012年3月に「蛤浜再生プロジェクト」を立ち上げる。2013年3月、水産高校を退職するとともにカフェ「はまぐり堂」をオープン。2014年4月に一般社団法人はまのねを設立。カフェのほかに、マリンレジャーや、水産業・林業・狩猟の6次産業化など様々な事業を展開。2015年2月には一般社団法人おしかリンクを設立し、牡鹿半島の情報発信やツーリズムなどにも取り組んでいる。

ー”あれから”変わったこと・変わらなかったことー

なぜ人口5人の集落に年間15,000人が足を運ぶようになったのか

妻をはじめとする大切な人たち、大好きだった故郷・蛤浜が津波に飲み込まれたあの瞬間、私を取り巻く環境はすべて一変した。あまりにも変わり果てた浜の光景は、まるで映画の世界のようだった。今でも「本当に現実だったのか」という思いが、ふと頭をよぎることがある。

震災で壊滅的な被害を受けた蛤浜だが、長閑な景色や豊富な資源が眠っている。

この震災は、強大化した資本主義経済や、効率と分業を追い求めてきた社会が機能不全に陥ったことを物語っているように思えてならない。実際、あのときお金は何の価値もなくなった。ローンで建てたマイホーム、車、家具…あらゆるものが津波に流された。

では、そこに残ったものは何だったのか。それは、自然と共存しながら生きることの重要性、浜や集落に根付く昔ながらの生活の知恵、人の温かみ・助け合い…つまり、人間の原点のようなものだった。物質的に豊かになるにつれ、置いてけぼりにされてきたもの。私たちはそれらの重要性に、改めて気づかされたように思う。

それは、浜や東北の人たちだけではない。人間関係が希薄と言われるこの時代に、東北になんの縁もゆかりもない人たちが、仕事を辞め、貯金を切り崩しながらボランティアとして必死に私たちのことを助けてくれた。彼/彼女たちもまた、効率ばかりを追求してきた社会になんとなく息苦しさを覚え、それが限界にきていることを少なからず感じたのではないだろうか。

そうした外から来た人たちは、これまでの東北にはなかった一流のスキルや考え方を持ち込み、浜や地域に根付く資源や価値を再定義してくれた。つまり、地域資源を今の時代に合わせて「新しい見え方」に変換してくれたように思う。その結果、東北には何かに挑戦する風土が生まれ、新しいプロジェクトが次々と生まれた。

高い石垣の上にあるカフェ「はまぐり堂」。連日、多くの客で賑わっている。

私たちの活動もそんな多くの仲間に支えられている。震災によって蛤浜の人口は2世帯・5人にまで減った。「このままでは故郷が消滅してしまう」。その危機感から、お金もなく、仲間もいない中で蛤浜再生プロジェクトを立ち上げた。その後、多くのボランティアの力を借りながら、2013年春にカフェ「はまぐり堂」をオープン。交流人口を増やすために、その後もキャンプ場やツリーハウスなど必要な事業をどんどんつくってきた。結果的に、今では年間1万5000人もの人々が蛤浜を訪れるようになっている。

浜に根ざす

しかし、実は震災から3年を迎えたあたりから、こうした”開発路線”が少しずつ行き詰まってきた。急激な変化に、浜の住民たちから戸惑いの声が上がり始めたのだ。

「とにかく人を増やそう」という思いで次々と事業を立ち上げ、ボランティアを受け入れ、メディア取材も積極的に受けてきた。ただ、住民たちも少しずつ日常の生活を取り戻していく中で、次第に「こんなはずじゃなかった」といった声を耳にするようになったのだ。観光バスが乗り入れ、市外・県外から多くの客で賑わうようになった浜だが、一方でその変化が住民たちの平穏な暮らしに戸惑いを生じさせてしまっていたのだ。「浜の人たちに喜んでもらいたい」「浜を存続させたい」。その一心でこれまで必死に突っ走ってきたのに、逆に悲しませたり、迷惑をかけてしまっているとするなら…。そう思うと「これまで何をやってきたのか」と落ち込み、精神的にかなり大きなダメージを受けた。

このときに、改めて「私たちは何をしたかったのか」と原点に立ち返ることにした。この浜の暮らしにいかに溶け込みながら根付かせていくか、身の丈に合った方法で日常的に回せる仕組みをどうつくるか。そう考えたとき、それは今までのように派手に花火を打ち上げてどんどん人を呼び込むのではなく、小さくても小回りを効かせる方がいい。そう思うようになった。交流人口は増え、外の人たちと緩やかにつながるきっかけは生まれた。この先は、数ではなく密に関わる人たちを増やしていこう。現在は、そういう一歩踏み込んだ関係性を構築するフェーズに入っている。

「蛤浜」という小さな針の穴から「社会」に向けて糸を通すこと。そういうイメージでもある。蛤浜にある課題1つ1つが他の地域の課題でもある。ここでの小さな成功事例が他の地域にも活かせるのではないか。たくさんの支援をいただいたからこそ、次は役に立てる存在になりたいと思っている。そのため、最近は起業家や学生などの視察を積極的に受け入れたり、東京でも企業研修やセミナーなどで声をかけてもらい、これまでの経験を話す機会を多くいただくようになった。また、今年から本格的なインターンの学生も来るようになった。

私たち自身が事業を増やすのではなく、自分の経験をケーススタディとして周囲に伝えることで、それを聞いた人たちが自分たちの持ち場で何かアクションを起こしたり、それを通じてさらに周りの人たちに私の経験が伝わっていく。むしろそういう手法の方が、最終的に全国各地へと裾野が広がるのではないか。同時に、次の世代へと経験やノウハウが受け継がれていくのではないか。今はそう信じている。

ライフスタイルや働き方の選択肢を増やす

そう、つまり私たちの存在は、あくまで「選択肢の1つ」で十分だと思っている。全国の地域を見ると、今は「うちがいいよ!」といった具合に移住者の奪い合いになっている印象だ。思えば、日本には地域ごとに異なる文化やカラーがあり、それが共存しながら多様な地域社会を育んできたのではないだろうか。しかし、効率化の名の下でそれぞれの色が薄れ、同質化・均一化とともに都市部への一極集中が起こってしまった。これからは優劣をつけたり、数を奪い合うのではなく、どの地域もその土地の魅力があるわけだから、それを生かし、自分にあった暮らしや働き方ができるようになっていくことを願っている。だから競争ではなく、協力し合いながら、私たちも「こういうライフスタイル・生き方がある」という選択肢の1つをつくっていきたい。

同時に、これからは蛤浜だけではなく、隣接する浜や集落とも連携しながら、少し広域的に地域を盛り上げるようなことができればと思っている。それぞれの集落の特性を生かしながら、地域としてどんな魅力を打ち出し、持続させていくか。あと10年もすると、この土地の知恵や文化をよく知る上の世代がいなくなってしまう状況が現実的になってしまう。今のうちにその知恵や技術をしっかりと受け継ぎながら、私たちならではの新しいアイデアも加えて、持続的な地域づくりを仕掛けていきたい。

ーBeyond2020 私は未来をこう描くー

復古創新の地域産業モデル

蛤浜をはじめとする日本の地域に眠る豊かな資源。つまり、山や海、そうした自然と共存するための知恵や創意工夫。それらは、残念ながら今の社会で失われつつあるのが現状だ。私が理想とする未来は、そうした資源や価値を今の時代の経済性や社会性に合わせたかたちで、次の世代へと持続的に残していく社会だ。それが経済合理性だけではなく、自給自足に戻るのでもない、次の豊かな社会・地域なのではないだろうか。

カフェで提供している鹿肉を使ったカレー。人気メニューの1つだ。

それを目指し、私たちは今、蛤浜の資源を事業に変えて、地域の中で循環させる活動に力を入れている。具体的には、狩猟や林業、水産業の6次産業化だ。獣害の問題に対して、鹿を生かすためにカフェで「鹿カレー」として提供したり、缶詰や革製品として販売している。また、手入れされていない山林も自分たちの手で伐採・間伐し、それをテーブルなどの家具として販売。浜で獲れる魚介類も同様に、カフェのランチやバーベキューをするお客さんに提供している。今後は、自分たちが採った鹿肉や魚介類を提供していく予定である。

浜辺で行うバーベキューは完全予約制。浜で獲れる魚介類などを贅沢に味わえる。

通常、6次産業化は生産者が加工・販売することが多く、そのため売ることに苦慮しているケースがよくみられるが、私たちはカフェやバーベキューなど、出口を先につくってきた。そこから一次産業をやることによって販売から生産を一貫した、言い換えれば川下から川上へ上っていくような6次産業化にチャレンジしている。同時に、それらの資源は売れる分だけを確保・調達している。今、乱獲によってマグロやウナギなどをはじめ、世界的に魚介類の資源減少が相次いでいる。価値を高めることによって利益が上がれば、資源を守ることができる。つまり、経済性を確保したうえで資源を守り、産業と暮らしを持続可能にする挑戦なのだ。

個性的な人材輩出の「学校」に

そのうえで、ここを人が何かを学び、大きく巣立っていく「学校」のような場所にしたいという願いがある。私は教員時代に、一人ひとりの生徒が本来持っている個性を十分に引き伸ばしてあげられるようなことができなかったジレンマを抱えたまま、退職した。唯一、それが心残りだった。だから、これからはここで個性をどんどん伸ばしたり、好きなものに夢中になることの大切さを伝えられる場所にしたい。しかも、今なら当時のように教科書で調べた言葉や借りてきた知識ではなく、私自身が体験してきたリアルな言葉と知識で伝えられる。

蛤浜再生プロジェクトの立ち上げメンバーの1人は、東北の漁師直送の食材を提供する居酒屋を東京で経営しており、以前カフェで働いていた従業員も今、独立して自分のカフェをオープンした。このように、スタッフやインターン生を含め、ここを訪れた人たちがその後大きく成長していく。さらに、自然体験やものづくり、狩猟、林業、水産業などそれぞれの分野で活躍するような人材が生まれてくれたら嬉しい。そんな将来を思い描いている。

このプロジェクトの最終的な評価は、私が死んだ後もこの地域が残っていること。私の役割は、地域が持続的に回っていくための仕組みづくりと、人が学び、活きる場所をつくることだと思っている。

不確かな時代における”幸せ”とは”ありたい姿”を実現すること

不確かなこれからの時代を生きるうえで、幸せとは何だろうか。日本社会には前の世代までの「あるべき姿」論が根強くある。有名な大学に行って、大手企業に就職する方が幸せだ。男らしく・女らしく生きるべきだ。本当はそれぞれに幸せのかたちがあるのに、そういう「あるべき」論に縛られているのではないだろうか。

これまでの時代の幸せの多くは、それで実現できたのかもしれない。しかし、社会保障が揺らぎ、大手企業も倒産する将来不安の時代、そしてAI(人工知能)が普及して機械に仕事を奪われていく未来も迫ってきている。また、日々の仕事に追われ、希薄になる人間関係の中で幸せを感じにくくなってきている。

日本は物質的には豊かになったものの、効率化・合理化を求める時代の大きな流れによって、昔はあった大切なものを少しずつ失ってきている。震災では便利なものはなくなったが、全国からのボランティアや地域での助け合い、ろうそくを囲んで家族で食事、風を感じ鳥の声を聞かながらの通勤など、”もっともっと”と便利さを追い求めるのではく、実は足元にある幸せを見つめ直す良い機会だった気がする。

一人ひとりの幸せのかたちとは何だろうか。どうありたいのだろうか。すぐに答えるのは難しいかもしれないが、不確かな時代だからこそ、画一的なものではなく、それぞれが自分の幸せのかたちやありたい姿を描いていくことが大切なのではないだろうか。幸い、インターネットの発展やインフラ整備が行き届いたお陰で、地方での可能性が随分広がった。クラウドファンディングや起業家支援など、それを実現しやすい環境もできている。それぞれに合った場所で、またはいくつかの場所を行き来しながら、生活することができるようになっている。

私自身も小さい頃は「浜の小漁師」になる将来を夢見ていた。しかし、「時代の流れ」によってこれから漁師を生業にするのは将来を考えると難しい。実情をよく知る両親の勧めもあり、水産高校の教師という道を選んだ。つまり、「憧れている仕事があるけど、生活のことを考えると難しい」「しょうがないから、こっちの仕事にしよう」などと、時代の流れに惑わされ、挑戦を断念してしまうケースが多いように思う。教師はとてもやりがいがあり、好きな仕事であったが、今の仕事は震災によって与えられた使命だと思っている。だからこそ、今まではできなかった新しい漁師のかたちにこれから挑戦していきたい。

地元出身者や仲間たちが学び、助け合う新しいコミュニティ

まだ何かのゴール地点に到達したわけではないが、紆余曲折がありながらもここまで歩んでこられた最大の原動力。それは、やはり周りの人たちの存在だ。資金的にも精神的にも力強くバックアップしてくれた家族、震災に負けず共に乗り越えてきた教え子たち、プロジェクトに賛同して全国から協力してくれている人たち、そして同じ目標に向かって日々一緒に戦ってくれている仲間たちがいてこそ今がある。本当に感謝しかない。

そんな私はこれから、多角経営している浜の小漁師になりたいと思っている。幼少の頃、祖父の姿を見て憧れた小漁師。当時の時代背景から教員という別の手段をとったわけだが、今の時代に合った小漁師の姿があるのではないか。まずは経営者として、それぞれの事業がしっかり回っていくように土台を強固にし、地元の人や仲間たちが共に学び合い、助け合える温かなコミュニティをつくっていきたい。その傍らで、浜で魚を獲って暮らしていけたら最高だ。