【Beyond2020(8)】文化の輸出に舵を切ろう。それしか道はない

三陸石鹸工房KURIYA 代表 / 株式会社アイローカル 代表取締役 厨(くりや)勝義

福岡県出身。地元の高専専攻科修了後、設計技師として機械メーカーに勤務。退職して世界各国を旅行し、帰国後は東京で人事コンサルタント会社に勤務。その後、翻訳業へ転身。東日本大震災の2週間後に、車に物資を詰め込んで南三陸町へ。3カ月後には同町に移住し、ボランティアツアーの企画や起業支援などの活動を実施。2014年に株式会社アイローカルを設立し、2015年1月に三陸地方の自然素材を使った石鹸を製造・販売する「南三陸石けん工房」をオープン。同年10月に女川町で移転・オープンし、「三陸石鹸工房KURIYA」として営業を続けている。

ー”あれから”変わったこと・変わっていないことー

希望であり、絶望であり、無関係でもある

この震災が、日本社会にとってどんな意味をもつのか。それは人によって捉え方や解釈は様々で、一概に「こうだ」とは言い切れない。ある人にとっては「絶望」であり、ある人にとっては復興の文脈で生まれた動きが「希望」であり、またある人にとっては自分とは「無関係」なことかもしれない。同じように家族を亡くした人の中でも、生まれ変わったように一生懸命働いている人もいれば、6年半経った今も依然として前へ進めない人もいる。人間はこんなに変わるんだ、という希望も見たし、一方でこんなに変わらないのか、という現実も見てきた。震災に運命を重ねたり、意味を見出すかどうかは人それぞれの判断で、少なくとも自分はある一面だけを切り取ってとやかく言うことはできない。

それでも、震災を経験したことで「いつ何が起こるかわからない」「人生は有限である」などと感じ、「人の役に立ちたい」と行動する人は確実に増えたと思う。「みんながいい」と評価する人生ではなく、「自分がいい」と感じる人生は何なのか。多くの人がそれを追求し、人生を変えた。特に東北では、そういう自分の生き方を貫く人が数多く生まれ、その姿を目にした人たちも自分の生き方を変えていく。東北を起点にして、そういう循環が生まれている。

経験ゼロから100種以上の試作重ね、石鹸工房をオープン

厨さんは震災から2週間後に南三陸町に入った。その光景は衝撃的で、その後同町に移住し、ボランティア活動に奔走した。

僕自身も仕事や仲間、住む場所など自分を取り巻く環境が一気に変わった。震災から2週間後に、南三陸町へ車で物資を運んだときに目にした光景。まだ遺体があちこちに残されている。相当に衝撃的だった。「これは国難だ。同じ日本人として、できることをやろう。いや、やらなきゃいけない」。そう決意し、持ち出しで100万円使い切るまで支援することに決めた。7月には南三陸町に移住し、主に現地と外部のボランティア・支援団体とのマッチングなどに奔走した。

当初は100万円を使い切ったら撤退しようと思っていた。その年の冬には底をつきそうだったのだが、僕が勝手に想像していたスピードでは復興は進んでおらず、またすでにその頃には住民や関係者の知り合いが増えていて、「◯◯さんがまだ困っているからなあ」などと続けているうちに抜けられなくなってしまった(笑)

南三陸町にオープンした石鹸工房。独学で研究し、100種以上の試作を繰り返したという。

震災から3年ほど経った頃、いよいよ南三陸に腰を据えようと決断した。そこで目をつけたのが石鹸だった。気仙沼市の仮設住宅で行われた石鹸づくりのワークショップを見学したとき、女性たちの熱心で楽しそうにしている姿が忘れられなかった。南三陸には若い女性にとって魅力的な働き口が少なく、それが地元を離れる一因になっていた。若い女性が地元に留まれば、町に活気が生まれる。また、石鹸の市場は高付加価値化が進んでいて、ビジネスとしての魅力もある。さらに、南三陸をはじめとする三陸沿岸の自然素材を使えば、世界のどこにもないオリジナリティを出せるとも考えた。石鹸の製造経験はゼロだったが、教室に通うなど独学で研究し、試作を100種以上繰り返した末、2015年1月に「南三陸石けん工房」をオープンすることができた。1人でひっそり始めた事業だが、その後女川町に移転し、雪だるまのようにコロコロと転がりながら少しずつ大きくなっていった。

女川はスパイスの効いた刺激系の地方

震災を経て僕の人生は大きく変わったわけだが、奥底にある根源的な意識はあまり変わっていないように思う。というのも、昔からまあまあ突飛なことを繰り返してきたからだ。地元の高専に通っていた頃に休学してアメリカに住んだり、就職後も突如退職して、バックパッカーで世界各国を旅して回った。なんというか、道を外れまくってきた。動機は、おもしろそうだったから。単にそれだけの理由だった。

2015年10月、女川町で移転・オープンした現在の工房兼店舗。地元客に愛されている。

そういう意味では、今いる女川町という「地方」での生活は、僕にとって非常におもしろく刺激的だ。例えば東京とニューヨーク、東京と女川を比べたときに、どちらの方がカルチャーギャップが大きいか。僕は断然、東京と女川の方がギャップが大きいと思う。東京でもニューヨークでも、例えばマクドナルドにはすぐ行けて、お金を払えばハンバーガーが食べられる。チップを払うか払わないか、その程度の差だ。モノは揃っており、要は貨幣交換で生きていける世界だ。ただ、地方はお金を払っただけでは解決できないことで溢れていて、ときには自分の価値観やスタイルを崩して、周囲と折り合いをつけながら事態を前進させる必要がある。営業のために東京の企業を相手に理路整然とプレゼンする一方で、地域の重鎮であるおじいちゃんたちと酒を飲み交わしたりする。地方で生活していると、価値観やコミュニケーションの幅が広がる。僕自身はそういう人間の方が、特定の価値観やコミュニティだけで生きる人よりもずっと魅力的に見える。

実際、女川町ではそういうカルチャーギャップを楽しみながら、地域に新しい価値を生み出す人たちが数多く活躍している。女川は復興・まちづくりを進めるうえで若い世代に権限を渡し、さらに僕のような外部の人も呼び込み、町を盛り上げている。その結果、僕や小松洋介さん(NPO法人アスヘノキボウ)、梶屋陽介さん(女川ギター工房)など外部の事業者が次々と現れ、また水産業など地元企業も震災後に世代交代が進み、30〜40代の経営者が新しい事業に積極的にトライしている。行政を含めて町全体が「株式会社女川」のような1つの経営体になっていて、「みんなで稼ごう」「新しいことやろうぜ」と目をギラッと光らせるベンチャー企業のようなのだ。こういうカルチャーは渋谷とか都会にあるのが普通だろう。こうした「スパイスの効いた刺激系の地方」は全国的にも珍しいと思う。

ーBeyond2020 私は未来をこう描くー

経済力ではなく、文化とスタイルで生き残れ

ところで、世界に占める日本のGDPは現在何位で、どれくらいの割合か知っているだろうか?長らくアメリカに次ぐ2位だったのが、2009年に中国に抜かれて3位に転落したことがニュースで騒ぎになった。その記憶がまだ新しいように感じるが、実は既に中国とは2.5倍近く離れており、アメリカとも4倍近い開きがある。米中で世界全体の約4割を占めており、両国との差はこれからもっと開いていくだろう。同時に、下からはインドなどがぐいぐい追い上げてくるはずだ。日本が今後、一気に再浮上するとは思えず、基本的には落ちぶれていくことになる。つまり「日米欧」は昔の話で、今は「中米欧」の時代なのだ。
この先、日本は世界の中でどう生きていくのか。これを議論するうえでは、まずこの現実を前提に置かないといけない。それなのに、「世界第2位の経済大国」「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といった過去の残像をいまだに追い求めている。今の日本のポジションと現実を冷静に飲み込んだうえで、何を武器に生き残っていくべきか。

わかめやアカモクなど、三陸の自然素材を使用。キューブ型のユニークな形やカラフルなラインナップは、チョコレート・お菓子のようで若い女性に人気だ。

僕は、フランスやイタリアを目指すべきだと思う。それは「いやいや、おれらには文化・スタイルがあるから」と言えることだ。アメリカや中国と経済力・規模で競い合うのではなく、独自の文化やスタイルを売っていく。ワインやシャンパン、料理、観光を筆頭に、フランスやイタリアは歴史的に文化を輸出しながら世界におけるプレゼンスを発揮していた。日本にも秀でた固有のコンテンツがたくさんある。日本食、日本酒、侍、武士道、柔道、茶の湯…数え上げたらキリがない。メイド・イン・ジャパンの電気製品や自動車の世界的な地位が相対的に低下している今、もう加工貿易は終わりにして、日本でしか産出できない文化、歴史が長く技術の蓄積が豊富で、絶対に追いつけないようなスタイル。そういうものをうまく売っていくしか道はないと思う。僕たちが手掛ける石鹸は、三陸地方の豊かな自然素材を取り入れた製品だ。これも日本独自の文化として、海外に売り込める可能性があると考えている。そういう文化やスタイルを売り込む方向にぐっと舵を切れば、それが海外でバンバン売れる時代がやって来るだろう。

人口争奪戦の今、地域独自の特色こそ必要だ

独自のスタイルを売り込む。このことは、全国の自治体にも必要なことだろう。人口減少時代の今、各自治体はいまだ経験したことのない人口争奪戦を繰り広げている。言ってみれば、企業が新卒の就職市場で競い合うのと同じような構図だ。これには、人の移動を巡る外部環境も大きく影響している。一戸建てを買うことが当然だった時代、そして地方から都市への移動が加速した時代を経て、今は都市と地方の間を自由に行き来する「自由移動」の時代に突入した。そういう中で、人気自治体と不人気の自治体が生まれるようになった。特色を出せている地域と、出せていない地域と言い換えてもいいだろう。

石鹸工房では定期的にワークショップも開催。女性や親子連れなどが参加している。

そういう点で、女川町の「ここはよそ者歓迎、起業に有利だよ」という特色は大きな武器になっている。地方創生の文脈でよく見られるのは、行政主導で5カ年計画みたいなものを作成し、5年で財源が尽きたら沈静化するようなケースだ。でも、町を開いてよそ者をどんどん呼び込んでいる女川では、今後もいろんなプレイヤーが流入しながら、ずっと何かムーブメントが起きているような状態が続きそうな予感がする。一定の人口流出は避けられないと思うので、10年後くらいに人口が今の6600人ほどから7000人くらいに増えている。それが、僕が予想する現実的な未来だ。その頃には、今の海士町(島根県)と同じくらい「イケてる地方」として知名度が上がっているのではないか。

好きなことを、自分でやれ。環境のせいにするな

若い世代に伝えたいメッセージがあるとしたら、それは「好きなことを、自分でやれ」「環境のせいにするな」ということだ。行動に移す際に、「あれがない」「これがない」などと嘆く人は多い。「その程度のやりたいこと」なら、やらなくてもいいと思う。人間、本当に好きなことならいくらでも知恵を絞り、時間を費やし、夢や目標を叶えようとする。ゲームのドラクエ(ドラゴンクエスト)を、寝落ちするまでぶっ通しでやったでしょ?(笑)タレントのさかなクンを見てほしい。あの人は魚が大好きで、24時間を魚のことにぶっこむわけじゃない?好きなことや興味のあることに、とことん向き合う。それが「自分がいい」と思える人生を歩むことにつながっていくと思う。

僕自身は今、「地方の経営者」であることを楽しんでいる。僕の実家は地場の土木建築業で、父親は地域にどっぷり浸かる昔ながらの社長だった。今の自分の姿をみると、全く同じことをしている(笑)女川町の商工会青年部に所属し、盆踊りなどの行事の準備をしたり、会合に出席したり。そういう家系で育ってきたせいか、全く苦じゃないし、むしろ楽しい。
これから事業としては海外輸出や通販、さらに石鹸に限らずスキンケア製品、将来的にはインナービューティの観点から食品も手掛けたいと思っている。同時に、「地方の経営者」の1人として、女川をはじめとする地元の人たちに愛される、小さな地場商店として少しずつ成長していきたい。