【Beyond 2020(7)】世界とダイレクトにつながる「Local to Global」の道を切り拓く

農業生産法人 株式会社GRA 代表取締役CEO 岩佐大輝

1977年、宮城県山元町生まれ。東京の大学に在学中、24歳でITベンチャーを起業。東日本大震災後、当時通っていたグロービス経営大学院の仲間を引き連れ、山元町でのボランティアツアーを企画・スタートすると、町の特産品であるイチゴの生産を開始。2012年1月、農業生産法人株式会社GRAを設立。同年9月、ICTを活用した最先端の農場を建設し、翌年1月には1粒1000円の「ミガキイチゴ」を開発するなど高付加価値のビジネスモデルを構築。インドにも農場を構え、事業展開している。同時に、ボランティアツアーから派生したプロボノ組織として2012年6月にNPO法人GRAを立ち上げ、人材育成などのプロジェクトも展開。2012年に日経ビジネス「日本を救う次世代ベンチャー100」、2013年に週刊東洋経済「新成長ビジネス100」、「日経ビジネスが選ぶ日本のイノベーター30人」に選出。2014年、「ジャパンベンチャーアワード」で「東日本大震災復興賞」を受賞。著書に『99%の絶望の中に、「1%のチャンス」は実る』(ダイヤモンド社)、『甘酸っぱい経営』(ブックウォーカー)

ー”あれから”変わったこと・変わらなかったことー

「東北オリジン」の経済圏とプレイヤーの出現

1000年に1度の大震災と言われるように、被災した東北の各地域には1000年に1度あるかないかという僅かな確率で、都会など他の地域や人々との交流の機会が生まれ、今までにない新しいプロジェクトが次々と立ち上がった。つまり、これまで東北にはなかった新しい考え方をもつ人々が入ってきて、東北の価値や可能性の花を咲かせてくれた。同時に、東北の人たちも自分たちがもつ資源の価値を見直したのだ。

産業を例に挙げよう。従来は、東京や大阪などに本社を置き、東北には支店を構える「支店経済」が圧倒的に多かったが、そこに東北に経営主体を置く「東北オリジン(起源)」の経済圏とプレイヤーが次々と出現した。震災前を圧倒的に上回るペースでだ。

ICTの技術を使って徹底した品質管理を行っている山元町のイチゴハウス

私たちGRAも、その一翼を担った。私はあの日、自分が生まれ育った町の変わり果てた姿に絶望し、頭の中がフリーズした。それでも、かすかな希望を見出し、故郷を蘇らせると胸に誓った。直後から、当時通っていたグロービス経営大学院の仲間を引き連れてボランティアツアーを開始するとともに、町の特産品で震災によって大打撃を受けたイチゴの生産にも着手。そこで目指したのは、以前からの課題だった低い収益率や後継者不足を打破するための構造改革だった。補助金と銀行からの借入金で2012年9月、ICTを活用した最先端の農場を完成させ、2013年1月には1粒1000円の「ミガキイチゴ」を伊勢丹新宿本店で販売。インドでも事業を展開するなど、山元町産イチゴのブランド化を進めてきた。

1粒1000円の「ミガキイチゴ」。業界の常識を覆すような大きなインパクトを与えた。

この過程で、起業家としての私の哲学にも大きな変化と発見があった。24歳から東京でIT企業を経営してきた私にとって、それまで経営とは「利益至上主義」だった。ただ、GRAを起業してからは「地域への貢献」が重要な経営指標に変わったのだ。同時に、多様なステークホルダーを巻き込んで価値を生み出す、つまり「共創」を意味する「Co-Creation」(コ・クリエーション)の重要性を強く実感することができた。GRAには私だけでなく、東京の企業を退職して入社してくれた人が数多くいるし、プロボノとして毎週のように山元町に来てくれる仲間がいる。「IT×農業」「東北×都会」など、異なるモノがぶつかり、交わることによって新しいサービスが生み出すことができたのだ。

「保守性」が息を吹き返してきている

一方で、ここにきて強く感じるのは、東北がもともと持っていた保守性が息を吹き返してきていることだ。外部から多くのプレイヤーが押し寄せ、いよいよ東北は歴史的にこれまでになかったような輝きを発するのではないか。そんな希望が一気に膨らんだのが震災後の3年間だったとすると、後半の3年間は「あまり変わりたくない」というエネルギーが蒸し返してきているように感じる。

それはなぜか。一言で言うと、外部の人も地域住民も、相手の立場に必要以上に迎合しすぎた結果、互いに疲弊してきたからだ。外から来た人たちは「東北の人」になろうと強く意識し、またいつまでも寄り添おうという姿勢を崩さずにいる。地域の人たちも、多くの支援を受ける中で次第に気を使うようになった。その結果、少しずつ距離が離れてしまっている。

このまま今のトレンドが続くと、「震災以前」に戻ってしまう危機感がある。それは、人口減少や過疎化が進む地域に戻ってしまうことを意味する。山元町の人口は震災前から少しずつ減少しており、余程大きな成功や間違いが起きない限り、残念ながら衰退していく運命にあった。震災直後に東北が一時的にでも主体性をもち、華やかに活動していたあのときのパワーをもう1度取り戻さないといけない。

小競り合うくらいの関係性がちょうどいい

では、震災直後に躍動感をもって走り抜けてきた姿を再現するには何が必要なのか。それは、プレイヤーになる人と、周りの仲間が楽しめる環境をつくることだ。

もちろん、行政や住民など地域との関係性がある程度必要な局面はあるが、過度な「地域住民/地域課題ファースト」は長期的にはかえって疲弊を招きかねない。そこで仕事をし、暮らす自分自身と、周囲の仲間の生活が豊かになること。「成長・キャリアアップしたい」「いろんな人と出会いたい」、あるいは「東北を変えてやる」。それくらいピュアな気持ちや勢いで地域に入り込む方がいい。そう、まず第一にあなた自身が「楽しむ」ことが最も大切なのだ。

受け入れる地域側も、「土足で入ってきてください」と言えるくらいの度量の広さが必要だ。このまま放っておいたら、町は衰退の一途を辿ることは自明だ。だったら、たとえリスクに感じても思い切って挑戦できる雰囲気を醸成すべきだろう。

同質化せず、異質な者としてそれぞれの意見をぶつけ合い、小競り合うくらいの関係性がちょうどいい。そうした、どこかソワソワ・ザワザワした不安定な状況をつくり続けることが大事で、それが結果的にサステナブルな活動、そして東北の課題解決につながるのだと思う。

東京などの大学生を対象にした合宿型研修「山元ミガキ塾」。震災直後のボランティア活動に端を発したNPO法人の活動は広がりを見せている。

例えば、農業生産法人GRAと並行して運営しているNPO法人GRAは、6年半経った今でも活動の熱が冷めないどころか、断続的に都会の人を巻き込みながら新しいプロジェクトを立ち上げている。最初はボランティア活動や地元の小・中学生向けのキャリア教育などを実施していたが、2015年3月から大学生を対象にした合宿型研修プログラム「山元ミガキ塾」、今年7月には体験型ゲストハウス「ミガキハウス」がオープンした。

今年7月にオープンした「ミガキハウス」。宿泊機能だけでなく、地域内外の人が交流する空間でもある。

この活動の広がりは、まさに関わるプレイヤーたちが「楽しい」と思える環境整備を最も意識してきたことが影響している。特にプロボノ活動においては、「KPI」や「受益者」といった視点に縛られた途端に閉塞感が生まれてしまう。実は私たちも、当初は「10年で100社・1万人の雇用創出」をKPIとして掲げていたのだが、数年前に組織に閉塞感が出始めたのでその看板を取っ払ったのだ。すると、そこから一気に風通しがよくなった。

そうした意味でも、KPI経営を徹底的に追求する株式会社(農業生産法人)と、プロボノによるNPO法人の両輪で走るGRAの組織体系は、ユニークな新しいモデルとして価値があるのではないかと思う。

ーBeyond2020 私は未来をこう描くー

五感で動け。道を切り拓くのは心の声だ

まず自分自身が楽しむことを最優先に、それが結果的に地域課題の解決になり得るという考え方は、全国のソーシャル・イシュー(社会課題)の解決にも通用するアプローチだと思う。

なぜ社会課題は課題としてあり続け、一向になくならないのか。巨大なパワーをもつ政治やビジネスが幾度となくトライし続けてきたにも関わらず、それでも叶わなかったからこそ、今も課題として残り続けているわけだ。これは非常に重要なポイントで、政治やビジネス、つまりMBAに基づく理論や、決められた枠組みの中でのフレームワーク思考は解決策にならないことを物語っている。要は、それを打破するには理屈ではなく五感を使ったアプローチが必要なのだ。「こうあらねばならない」という定説を放り投げ、「社会/地域のため」と肩肘を張らず、「楽しい場所か」「刺激的でワクワクするか」「おもしろい人と出会えるか」と、自分の心の声を聞く。そして、楽しみながら行動する。それが結果的に、地域や社会の課題を解く決め手になるのではないか。徹底したKPIや頑丈な理論以上に大切なのは、こうした精神や思考の自由なのだ。

私が描く地域社会の理想像は、そうした楽しみながら自分の力を発揮する人たちが、全国各地に数多く分散している社会だ。

宮崎県日南市で活動する黒田さんと対談。こうした各地域のリーダーたちとの出会いは、東京では味わえない貴重な経験になっているという。

東北の外に目を向けると、全国にはユニークなプレイヤーや突出したリーダーがたくさんいることがわかる。そうした地域には多くの人が集まり、活気が生まれている。

例えば、宮崎県日南市。先日、過疎に苦しむシャッター街を再興させた立役者たちに会ってきた。その1人が、株式会社油津応援団を経営する黒田泰裕さんだ。60歳を過ぎたおっちゃんのパワフルでいかにも楽しそうに語る姿は強烈だった。私の目には、何より黒田さん自身が一番楽しそうにしているように映った。それが結果的に周囲の人を引きつけ、地域を盛り上げているのだ。私はGRAを経営するようになって、そうした多くの地域プレイヤーたちと交流する機会に恵まれた。これは東京からでは絶対に見えない景色で、何物にも代えがたい刺激となっている。

日南市だけでなく、そういう全国の地域は今、東京を経由せずにダイレクトにつながり、互いに行き来しながら刺激を受け、さらに地域が活気付くという好循環が生まれている。こうした地域同士の結びつきや連携は今後も加速していくだろう。それぞれの地域が多様になることはつまり、日本全体の多様性に直結し、国全体を豊かにすることになるはずだ。

「世界の中の地域」が持続・発展の道だ

そのうえで、これからは各地域がもっとダイレクトに世界とつながる「L to G(Local to Global)」の道を切り拓くべきだと提唱したい。

私には1つの仮説がある。それは、どんなに地理的に不利な条件でも、世界で勝負できる商品や世界の誰にも負けないサービスがあれば、そこにはどんな場所からでも人が来るし、またその商品・サービスは世界に広がっていくはずだ。私はこれを「脱ステップ論」と呼んでいる。つまり、従来は地域で成功したら東京へ、東京で成功したら世界へという「ステップ・バイ・ステップ論」が成功の近道のように語られてきたが、これを一切無視し、東京を経由せずに直接グローバルにつながる「世界の中の地域」になろうという意味だ。

ただでさえ世界のGDPに占める日本の割合は低下しており、今後もダウントレンドが続いていく。こうした局面においては、「日本の中の地域」ではなく「世界の中の地域」として世界に向けて独自性を発揮することの方が経済的にも社会的にもインパクトは大きく、また地域が自立的・持続的に発展していくうえでも重要だ。

わずか創業2年目でインドに農場を建設した。今後も山元町の栽培技術を世界各国へ売り出していきたい考えだ。

GRAは創業2年目でインドに農場を建設し、山元町発のイチゴの栽培技術を応用して現地生産に成功。直後から驚異的な売り上げを記録した。さらにサウジアラビアでも調査事業に着手し、香港でも「ミガキイチゴ」を販売している。現在、海外の売上比率は1割を超えている。自分たちの町で育った農業技術が世界で通用する。これは地域住民にとって非常に大きな誇りになっている。

山元町のイチゴが、世界を席巻する日を夢見て

私にとって、東北は愛する故郷であるとともに、未知の可能性を秘めた日本で最もエキサイティングな市場だ。歴史的に保守的で変化が生まれにくい風土がある反面、その閉塞感を打ち破り、風穴を開けてブレイクスルーさせたときの伸びしろや振れ幅が非常に大きいからだ。1人のプレイヤーとして何かを成し遂げようとするうえで壁は高いが、その分それを乗り越えたときの喜びが大きい。日本で最も刺激的で、挑戦しがいのあるフィールドなのだ。

私はそんな東北にある山元町という地域から、世界で勝負できるビジネスパーソンになり、同時にGRAとしても世界で飛躍するグローバル企業に成長したい。今後はインドだけでなく、世界各国に拠点を広げる拡大フェーズに入っていくだろう。「世界の中の岩佐大輝」「世界の中のGRA/山元町」として、私個人とイチゴの技術が世界で認められ、席巻する姿をなんとしても見せたい。

あとは、趣味のサーフィンで世界各地の海を巡りたい。私は海に故郷や仲間など大切なものを奪われた。その恐怖から、震災後の数年間は大好きなサーフィンで海に入ることがどうしてもできなかったのだ。失ったものの大きさは計り知れないが、その分これからは世界中の波に乗りながら、人生の大切なものをつかみ取っていきたい。