【インタビュー】立ち向かう相手は震災ではなく、明治以降の日本の雰囲気とメンタリティ/ワカツク渡辺一馬

「れんぷく」は言いだしっぺなんです

―3.11のときに、どこにいて、どんな経験をされましたか?

地震の瞬間は車の中にいました。仙台の街中です。大きい揺れが3分程度続き。世の中が終わるんじゃないかと思うぐらい、揺れた。鉄筋コンクリートの高層ビルが竹のようにしなっていました。余震が続く中、会社に戻ってきて、ぐちゃぐちゃだけど、社員の無事を確認して、みんなで帰ることにしました。帰ったら、自宅がほぼ壊れていて。寝るところすら作れなかったので、三々五々と集合した家族と、宮城県南の私の実家に避難しました。そこで、二泊三日して、月曜日には、出社し始めていました。

最初の1週間は、自分が何ができるかはあまり考えずに、片付けたり、インターネットが使えたので、避難所や現場で足りない情報をリレーしていったりしていました。「あのときの一馬さんはすごかったね」とあとから言われます。自分としては当然の情報を流しているだけでしたが、ツイッターとか電話とかでわあわあとそこそこさばいていたみたいです。信頼できる知り合い、もしくは知り合いが知っている人からの情報はリレーし、知らない人の情報は流さなかった。

ただ、自分個人でやっているといつか限界がくる。理事をやっているせんだい・みやぎNPOセンターが、そういう情報集約の機能を持ったほうがいいのでは、と思って、センターの緊急理事会で、「民間だからできる『つなぐ』ことやりましょうよ、その際は『連携』してやるんですよ」と提案して、「みやぎ連携復興センター」(通称れんぷく)ができていきました。

注:みやぎ連携復興センターは、東日本大震災からの地域主導の自律的な復興とまちづくりの実現を目指し、主に宮城県全域において、各セクターの担い手同士の協働を促進させるための事業を行っている団体。同様に「ふくしま連携復興センター」「いわて連携復興センター」がある。

―なるほど。それが「れんぷく」なんですね。

そうなんです。だから自分がいいだしっぺなんです。それで、れんぷく名義で動いていました。4-6月はとにかく淡々とやっていました。あのころの気持ちはどうもフラッシュバックしてこないですね。感情が思い出せない。自分は自宅が壊れたぐらいで、凄惨な現場にはほとんど立ち会っていなかったので、無駄に危機迫っていなかったのかもしれません。

それから、5月から知り合いのマンションを借ることができて、居候させてもらっていた親戚の家を出て、再び家族だけで住めるようになりました。それで、7-8月ぐらいから感情の起伏が出てきたんです。毎日飯食いながら号泣している僕、というのがいて。ごはん食べるためにうち帰ってきて、食べながら号泣して、食べ終わって一息ついたら仕事場に戻る。

ちょうどその頃、ものを配るという初期のフェーズが終わってきていました。これから何をするとこの人たちの力になれるのか、この人たちが力を取り戻せるのか、でもそれがすぐにはできない、どうすればいいんだろう、とすごく悩んでいました。あと自身も会社の経営者でもあり、そろそろ会社の経営にも力入れないと、というのもありました。ものすごい有利子負債を抱えている会社でしたから。

片方でいろいろな復興案件がどんどん立ち上がってきて、手数がすごいかかってきて。でもお金をもらっているわけじゃないから、このまま僕がこれだけやっていたら会社としては危険になる。かといって、やることで喜ぶ人がいるからやめられない、という狭間でした。決算の時期でもあった2011年の6月ぐらいがある意味極限だったのかもしれません。

復興に関わるNPOや人がフラットにつながる開かれた場を創りたかった

―「れんぷく」はその後どうなっていきましたか?

僕は、個人に対してエンパワーメントする(empowerment, 力を与える)、というところは得意なのですが、組織をつくるというのが下手なんです。今から思えば、連携復興センター(れんぷく)というものを創ります、といっても、事務局機能をどうするか、誰が何をするのか、というのを決めないまま始めたので、結局、僕をはじめとする、れんぷくの会議参加者ができる限りやる、みたいになっていました。しかも、僕の師匠のせんだい・みやぎNPOセンターのトップだった加藤哲夫さんの体調はだいぶ悪化していました(2011年8月にご逝去)。

れんぷくは、単純に復興に関わるNPOや人同士をつなぐ場であればいいと思っていました。設立時のイメージでは、各地で自主的に動いている人たちの芽を見つけて、それがふっと立ち上がるときに、つながる場を各地でつくりましょう、ということ。いい事例を他に紹介する、とか、困難なケースがあった時にはうちから人を出せますよ、とか、こうやるといいですよ、という紹介ができる、とか、そういうフラットな場を目指していた。でも「場」じゃなくて、外から見ると各NPOの上に立つ統制組織のような印象になってしまったかもしれません。自分がもっと時間をさいていたら、もうすこしフラットでオープンな雰囲気をつくるとか、できたんじゃないかと悔いています。

亡くなった加藤さんは「でっかい体育館に、復興支援をやっている人たちが100-200人集まって、悩みを共有して、その中から新しい取り組みをやろうというのがいくつか生まれる、というのを毎月やる」というようなことを言っていました。そんな場が創れたらいいのに、というのが変わらぬ思いです。

―復興に関わるNPOを中間支援する立場から見えてきてものはありますか?

日本だけの話だけかもしれませんが、NPOセクターとかソーシャルセクターをこれまでやってきた世代の方々って、感情で対立することが多いですよね。方法論とかロジックとかを隠れ蓑にした感情の対立です。雇われたくない人たちによって構成されているチームだから、余計に感情に正直なのかもしれません。

その下の若手世代は、というと、今度は、大きい目的を共有できたとしても、それに至る手法や方法が未熟だから、うまく互いにコラボレーションできない、という違うボトルネックを抱えています。さらには、一度こうだと決めてしまうと同じやり方でしかできない。やり方を変えるにはエネルギーも頭も心も必要だけど、その体力か知力か胆力が足りないから、自分が今やっている手法に固執してしまう、というところがあります。例えば、自分たちが一回やった支援の仕方があると、被災者のニーズが変わってその支援を必要としなくなったら、対象を変えてでも、そのやり方を続けようとしたりしている。

今は被災者から生活者に戻っていくための、力を取り戻していくことに貢献していく時期

―今ちょうど、復興支援の形が変わっていく時期だと。

震災から1年以上がたちました。今、復興支援を行う人たちは、被災者の方々が生活者に戻っていくための力を身につけていく、もしくは力を取り戻していくということに貢献していくのが、僕は本筋だと思っています。でも、実際には緊急時の支援をそのまま続けている。それはむしろ力を奪う、ディスエンパワーメントになっていることが多いです。どこかに、自分たちよりも力が弱い人がいてほしいと思ってしまっている。それで頼られることが支援を行う側の精神安定剤になっている。そういう精神構造がまずい、と思っています。

この夏にもう一回ボランティアブームが起きた後に何が残るのか。ボランティアをみんなが遠隔地からしにくるのではなくて、地元の人たちがやっている自主的な活動に自主的につながる、というふうに変えていけるかが鍵ですね。できる限り僕らみたいな中間支援が表に立たず、被災地で自ら動いている方々が、外のリソースと対等に付き合えるというのをプロデュースできれば、サポートできれば、と思います。

エンパワーメントの流れがある一方で、人がディスエンパワーされ力が奪われていくスピードもすごいのが現実

―伺っていて思うのは、難しさの根底にあるのは、復興の問題というよりは、むしろ戦後日本のメンタリティなのでは、ということです。

はい、立ち向かっていくのはそこなんです(笑)戦後日本の、もしくは明治以降の日本の、セルフヘルプ(自助)の精神が乏しい雰囲気を変えることだから。楽しいんですけどね。そもそも立ち向かうべきものではない、という感じがしないでもないですが(笑)。欧米型の市民社会になってほしいとまでは思いませんが、市民として一人一人がもう少しエンパワーされて、その上でお互いにつながっていく社会であればと思っています。

見ず知らずの誰かのためになんかいいことをしている気になっている、というのが日本の病理だと思っています。そうではなくて、具体的にあの人を好きだから応援する、というのが多重に構成されていけばよいし、それを創っていきたいです。好きだから手伝う、一億二千万、総えこひいき時代(笑)。互いに互いをえこひいきしていれば、公平は全体としては達成される。

でも、今のところ、ディスエンパワーメント、という意味でのえこひいきになっている場合が多いですね。支援したがっている人がいるから、立ち上がろうとしたけど立ち上がるのをやめてしまう人たちがいます。立ち上がると、ものがもらえなくなるとわかってくるし。たとえば、とある仮設住宅の集会所では、ミキサーを二つください、というような要望が出ています。たぶん「足りないものは何ですか?」って聞いたんでしょうね。だいたい基本的なものはそろっているから、もっと高性能の血圧計がほしいとか、体脂肪計あるといいね、とか、そういうことになり始めている。

住民の方が自分たちでそういうのはまずいよねと自ら思ってくれる仕掛けはつくりたいです。今、それに近いことを考えながらやっているのが、少額の活動助成金をきっかけにした、被災者の方々が自らの活動を立ち上げていくためのパッケージづくりです。助成金の申請書を被災者グループがきちんと話し合いながらつくれるような、ワークシートと合意形成の基本的な考え方をパッケージにして提供し、数多くの被災者のグループが自主的に立ち上がることを支援していき、そのまま次のコミュニティづくりにつながるように。

復興支援の現場って、人がきらきらします。楽しかったり、やりがいがあったり。そこで人が輝き、それを見てまた次の人が輝いて、という人のエンパワーメントが着実に起きています。その一方で、こんなに人ってディスエンパワーされていく、力を奪われていくんだという、そのスピードもすごくて…

当初僕が思っていたのは、ソーシャルアントレプレナー(社会起業家)といわれる類の人たちと市民の間にあまり区別はなくて、みんなが当事者意識を持ってこの難局に立ち向かう、もうちょっと「熱感のある東北」というイメージでした。でも、実際に起こっているのは、むしろ資本主義経済的で、力やネットワークを持つ人がますます力を持って、その人たちがその他の人にその力を分け与える、みたいな感じになっているように思います。それは違和感があるし、フェアじゃないと思う。

僕ら世代が立ち向かわなければ、10代・20代の人たちがつけを払わされることになる

―それって、今の日本の縮図ですよね…例えば上の世代に富が偏在している一方で、若者は社会の意思決定にも関与できず、フラストレーションをためている。ベンチャーにはお金がつかない…

人間だって組織だって成長曲線があります。ゼロからスタートしてしばらく横ばいして(①)、それからある時ぐっと立ち上がり(②)、あとは成長が終わって成熟して横ばいに(③)。本来なら②に投資しないといけないのに、なぜか日本は③にお金をつける。そしてそこに群がる人もいる。それから、①にもつきますね。復興予算も、何もない①か、すでに持っている③の企業や団体に流れて、今はそこそこだけど3000万投資したら将来大化けするかもしれない、という②の企業にお金はつきません。

被災者支援という共感ベースのところから、ちょっと痛みを伴う、共感じゃなくて理解、議論というフェーズにうつらなくちゃいけないのに、かなしそう、つらそう、さみしそう、というところに意識が向かう。そしてそれを隠れ蓑にして巨大なお金がつけられ、特定の誰かがもうかっていく。ここに幸せではない誰かがいます、という合意形成ができると、そこにお金つけても誰も文句をいわなくなる、そしてそれで儲かる人たちがいる、っていう世の中。これは、おかしいな、って思います。

―個別ではいろんなよい話がある。人がエンパワーされてきらきらする。一方で、逆の力の大きさもすごい。その両方が、大きく出ているのが、東北なのかもしれないですね。

お話をさせていただいて、整理ができたのと、立ち向かうものの大きさを改めて認識しました(笑)。戦うべき相手は、近代以降のニッポンの病理だったか、って(笑)。でも僕ら世代が立ち向かわなくちゃいけないこと。そうじゃないと、今の20代、10代の方々が、つけを払わされることになるから。

目の前のことができない、関心を持っていないのに、遠くのことができるの?

―最後に。渡辺さんの東北、地域への想いはどこからきているのでしょうか?

実家が農家で、自分のところで作って食べて、お祭りを準備して、出て、片付けて。それが普通でした。地域ってこんなものというプロトタイプが自分の中にある。僕はおばあちゃん子で、おばあちゃんは、ご飯は残さずたべよう、作った人に感謝しよう、人と会う時にはにこにこ笑顔で、としかいわなかったけれど、他者貢献というOSを僕に植え付けた。それが大人になるにつれて多少広がっていっただけだと思います。

小学校の子どもたちがアントレプレナーシップマインドを学ぶという教育をやっている先生たちのチームと仕事をしたことがありますが、それも僕の原体験です。そこで彼らがベースにしていたのが郷土愛で、郷土の問題解決を通じてアントレプレナーシップを学ぶ、というプログラムでした。あまり高くうれない地元のりんごをどうするか、という課題を与えられ、小学生が地元のお菓子屋さんと連携してりんごパイをつくって単価を上げることに成功しました。そうしたら、その小学生が、作文にそういう経験をさせてもらって「ありがとうございました」と書いたんです。僕はほのかに感動しました。生きていくって、こういうことなんじゃないか、と。

具体的なものへの愛着がすべての土台です。目の前のことができない、関心をもっていないのに、遠くのことを本当にやれるの?と思っています。1000プロ(注)をやり続けるモチベーションはそこにあります。希望とは、行動によって何かを実現しようとする気持ち、であり、ならば被災地で行われていることは希望のかたまりであるはずです。人が自分の見える範囲で具体的なことをし続けること。それを通じて、これが普通だよね、とみんなが思える世界を創っていければと願っています。

(注)1000プロとは「東北1000プロジェクト(http://www.tohoku1000.jp/)」というサイトのこと。2014年3月までに、東北から未来を創っていく1000個以上のプロジェクトの掲載を目指す。(2012年8月12日現在72個のプロジェクトが掲載)。各プロジェクトの広報支援、プロジェクト同士の情報共有ためのサイトであると同時に、若者とプロジェクトを繋げていくための仕掛けでもある。

(インタビュー2012年6月17日)

【インタビュアー】
山崎繭加(やまざきまゆか):マッキンゼー・アンド・カンパニー、東京大学先端技術研究センターを経て、現在はハーバード・ビジネス・スクール(HBS)日本リサーチ・センターにて、主に日本の企業やビジネスリーダーについてのケーススタディの作成を行う。また東京大学のリーダーシッププログラムの運営にも関与。東京大学経済学部、ジョージタウン大学国際関係大学院卒業。

【インタビュイー】
一馬さん_trimmed渡辺一馬・一般社団法人ワカツク代表理事
大学卒業と同時にデュナミス代表に就任し、インターンマッチング等、数多くのプロジェクトに関わる。震災後はワカツクを創業し、課題解決できる若者の育成のため「東北1000プロジェクト」ほか様々な復興支援活動を行う。1978年生まれ。