一度は内陸に避難し、沿岸部へ戻って自営業を再開した女性の夢「だれかのためにできることを忘れない」

[3.11からの夢] 澤口玉枝 49歳 カフェ店主|岩手県釜石市

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東日本大震災と向き合い3月11日を「はじまり」に変えた30人の夢を掲載した書籍『3.11からの夢』とのコラボ記事です。

20歳も違う女の子に、夢をもらいました

仕事が失くなる。住んでいる家が失くなる。すべて失くなるなんて想像もしていませんでした。それが現実になったのが、3月11日です。一瞬にして町が流され、さっきまで話していた隣の人が浮かんでいました。ショックのあまり涙すら出ませんでした。

私たち家族は内陸の親戚宅へと避難し、その後アパートを借りて何もない部屋から生活をスタートさせました。子どもたちの生活を早く元に戻してあげたくて、内陸の中学校に入れてもらう手続きをしました。内陸の人たちはとても優しく迎えてくれましたが、沿岸の状況が今ひとつ伝わっていないため、学校側から「すべて買って準備してください」と言われた時、我慢していた涙があふれたことを思い出します。勉強道具、制服、外靴など学校へ通うために必要なものを買うお金もありませんでした。

生活が落ち着いてきても、先が見えない毎日と内陸との温度差に苦しめられていきました。仕事を探すにも面接に着ていく服がなく、震災に遭ったからといって採用してもらえるわけではありませんでした。もちろん物資の援助も配給もありません。毎日の食料や、器、電化製品など最低限必要なものをそろえることが、本当に果てしなかったです。

一方、沿岸部では、タレントが復興支援に来ていたり、無料で食料や物資もいただけていると聞きました。「ここにいれば普通の暮らしができる」「仕事さえ始めれば元に戻れる」と思い移住を決めたのに、内陸に来たのは間違いだったのか。本当の苦しさはだれもわかってくれませんでした。

内陸で仕事も決まらず、温度差に苦しむ毎日よりも、不便でも地元に戻って、大変でも釜石で1から再建する方がいいのではないか?と夫婦で話し合い、同じ苦労をするなら地元でしようと、震災から5カ月後に釜石へ帰ることになりました。学校、町、家…すべてにおいて内陸に比べると不便なことだらけでしたが、住み慣れた町へ帰ってきたことや、補助金のお話やいろいろな情報を聞くことができ、仕事を始める目処がたったことで、精神的には安定しました。まわりのほとんどが被災者で、気持ちをわかり合える環境がそうさせてくれたのだと思います。 

子どものためと思い内陸に避難しましたが、環境も物資も整っているからいいわけではなく、恵まれない環境でも同じ思いを味わった仲間の元でこそ頑張れる、再生する力があるのだと気付かされました。

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仮設住宅での新たな生活が始まり、その間にたくさんの学生がボランティアに来てくれました。若い人たちと話すと、不安な気持ちが軽くなっていきました。2年後、いよいよ自営の店が再オープンするという時にも、学生に開店準備を手伝ってもらうことになりました。その中で、特に印象に残った子がいました。彼女は、「私は阪神淡路大震災で3歳で父親を亡くしましたが、その時たくさんの方々に助けられたので、大学生になった今、東日本大震災で被害に遭われた人を今度は自分が助けたいんです」と明るく私の前で自己紹介したのでした。

その時の衝撃は今でも忘れません。震災後、自分のことだけで精一杯だった私たちは、たくさんの方々から助けられたにもかかわらず、いつの間にか助けてもらうことに慣れ、他人のためにできることを忘れていたことに気付かされました。40歳を過ぎてなお、こんな経験をしないと気付けなかったことに、自分が恥ずかしくなりました。

「だれかのためにできること」をずっと心の中に置いて生きていける人になりたいと思うと同時に、我が子やこれから出会うであろう人たちに震災の教訓を伝え、つなぐ役割ができればと思っています。再建したお店には小さなカフェをつくりました。震災の前から持っていた、「近所の人たちと話しながら、ちょっと珈琲を飲める場所がほしい」という夢が叶った今、あの時助けてくださった人たちがフラリと釜石に来た時に寄れる場所として、しっかり守っていきたい。そうやって、心を寄せ合い、人を思い助け、助けられた人をつないでいきたい!それが、今の私の夢です。

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記事提供:3.11からの夢(いろは出版)