[寄稿]見えるもの、見えないもの。そして見えつつあるもの ~浪江町での3年間を振り返る~(後)

7.立場を超えたからこそ生まれる協力関係

 この災害を通じて私の原動力となったのは、立場が違う中でともに取り組む「仲間」たちでした。住民、地域団体、他の市町村、県、国、企業、支援団体。ややもすると対立関係に陥ることがありますが、ともに課題を直視する中でともに取り組む「仲間」となっていくことで、多くの課題が解決できることを実感しました。

 強い印象が残る出来事は、屋内待避区域からの避難でした。孤立した浪江町津島地区から約8000人の町民の脱出を模索していたとき、力になってくれたのは、タウンページや知人の伝手でつながった地域のバス会社の社長さん達でした。大手マスコミすら立ち入らなかったエリアに、人として彼らは手をさしのべ、多くの町民の救出に力を尽くしました。究極の状態には公権力や市場原理はあまりにも無力です。「人」として「助けたい」と願う切なる想い。それを受け止めた「人」として「自分が動かねば誰が動くのか」との責任感。その二つが共鳴した故に成し遂げられたことでした。

 住民と行政も対立しがちですが、行政も動きがとれない場合も現実にはあります。そんな状況を見て志ある町民の方々が避難所運営や自治会の結成など、自治の力で住民を支え始めました。行政に出来ない柔らかな関係性の構築、細やかな対応は、自治の強みでした。

 また、「政府」や「国」であっても、現実を把握し、なんとか克服したいとの想いを持っているメンバーも多くいました。真剣に意見を交わし合う中で信頼が生まれ、業務を超えた「仕事」、人としての「役割」の意識が生まれていくと、進まなかったものが進んでいきました。

 「マスコミ」の中でも、限られた時間の中で、しっかりと伝えてくれる取材者も確実に存在しました。被災者の側に立って物事を見、行政の不足点も含めた地域の生の課題を、他地域の方々と共有できるようにしていく、そんな取材者の存在は大きな励みになりました。現地にいる我々と、真剣に伝えていきたい彼ら。私たちの目線とは別の目線で咀嚼し私たちでは共有できない情報や知見を、社会と共有する役割を担って頂けたことは感謝すべき出来事でした。

 従来、行政が活動支援を行っていたNPOなどの民間団体も、行政ができない分野で多くの力を発揮しています。住民の方々の自治組織の運営支援や、避難自治体である双葉郡の職員の育成・支援プログラムを実施し、町村同士の垣根を低めていくことなど、従来では想像もしなかったレベルでの民間による行政支援も始まっています。

 企業についても、その力なくして避難対応、復興実現は困難な状況になりつつあります。社会貢献として資金援助をするあり方から、社会の課題解決方策を提供することによりビジネスを成り立たせてきた組織が本格的に関わるあり方へと、フェーズも変化しつつあります。いずれの企業も復興支援の責任者の方と対話を重ねる中で、「我々の企業としてなし得ることは何か」を真剣に考えて頂き、実現にこぎ着けています。

民間が行政を支える時代へ

 振り返れば、震災前から福島には多くの課題がありましたが、その解決に当たるアクターは不足していました。震災を通じて、志と能力のあるすばらしいメンバーが、人々の暮らしの再生、そしてこの地域の再生に関わってくれる状況が生まれています。
彼らの活動から見えることは、行政が民間を支援するという今までのあり方から、民間が行政を公共のために支援するというタームに移行しつつある姿です。

 彼らは単に「民間だから」行政より良いのではなく、それぞれが自ら強みとする「専門性」を官民問わず有しているからこそ、専門性が弱い組織や活動を支援していくことができるのでしょう。支援先は民間又は行政に絞る必要はなく、必要とするところが行政であれば、純粋に行政を支援していくということなのかもしれません。

 こういったメンバーの参画によって、日本が抱えるこれからの課題を、この地において一歩先んじて取り組むことが出来ると私は予感しています。また、こういったメンバーと従来からの行政分野にいるメンバーが、相互にプロジェクトを作り上げることで、自分にはない視点や能力を理解し合い、孤立して取り組んでいた頃よりも、はるかに課題解決力のある方策を打つことができるようになるのではないでしょうか。

 被災地の問題解決が、その後の社会の問題解決の先鞭となる役割でもあることが、改めて見えつつあります。