【Beyond 2020(48)】双葉郡の今と、住民の思い

福島県双葉郡富岡町 平山勉

福島県双葉郡富岡町出身。高校卒業後に上京し、音楽関係の仕事を20年以上続ける。2009年、実家が経営していた「ホテルひさご」を継ぐためにUターン。2011年8月、町内の歩道橋に「富岡は負けん!」と書いた横断幕を掲げる。それ以降、町内の情報を集積したWEBサイト「富岡インサイド」や、主に双葉郡を活動エリアにした「相双ボランティア」を立ち上げる。2015年7月に「双葉郡未来会議」が発足、事務局代表に就任。音楽レーベル「Nomadic Records(ノーマディックレコード)」も経営している。

ー”あれから”変わったこと・変わらなかったことー

ドブをさらう人がいないと、水は流れない

「自分の町のために、ボランティアすらできないのか」。故郷の富岡町(福島県双葉郡)はイチエフ(福島第1原発)の事故発生直後から警戒区域(当時)に指定され、人が立ち入ることができなくなった。手つかずのまま、どんどん廃れていく。あまりにも巨大すぎる得体の知れない”壁”のようなものを前に、じっとしていることしかできない時間がもどかしく、自分の無力がただただ悔しかった。

あれから、7年が過ぎた。イチエフから半径20km圏の避難指示、避難指示区域の制定(※1)、警戒区域の再編(※2)、除染作業の本格化、そして2014年以降に少しずつ始まった避難区域の解除。もちろん、これら以外にも小さな節目が数え切れないほどたくさんあった。

放射線量が高いのか、低いのか。避難指示を解除するのか、しないのか。帰るのか、帰らないのか。それをぐっと飲み込んで、一歩前へ踏み出すだけでも、毎回相当の覚悟がいる。目の前の扉をこじ開けたら、次のスタートラインが見えてきて、それをまた乗り越えていく。そんな決意と選択を積み重ねてきた、長くて、あっという間の7年間だった。

富岡町のために、双葉郡のために、微力でも何かできることはないか。自分自身はずっと、「誰かがやらないといけない」「自分にできることをやるだけ」。そんな思いで、まだ居住できない時期から何度も一時的に現地に入り、ボランティアなどを続けてきた。きっと自分たちがやってきたことは”福島の復興”という大きな括りでみれば、”最底辺のドブさらい”でしかないだろう。でも、こうも思うのだ。泥にまみれて、ドブをさらう人がいないと、水は流れないんだよと。

「はなれていても、おとなりさん」

「富岡は負けん!」。2011年8月、公益目的で富岡の会社に一時的に戻った際、国道6号沿いの歩道橋にこの文字を書き記した横断幕を掲げた。NTTのライブカメラが設置されたこの場所から、避難先でバラバラに暮らす町民や、全国の人たちに向けて「負けない」「生き抜いてほしい」というメッセージをどうしても伝えたかったからだ。

歩道橋に掲げた「富岡は負けん!」の横断幕は、多くの町民を勇気づけた。

町内の情報を発信するWEBサイト「富岡インサイド」を個人で立ち上げたのは、その直後だった。2013年からは「相双ボランティア」という団体も立ち上げ、双葉郡内で住民が避難した家の片付けや草刈り、引越しの手伝いなどを始めた。

それから約2年後の2015年7月、双葉郡8町村の人たちが集まって情報交換する目的で、「双葉郡未来会議」が発足した。「8町村だよ!全員集合」などと題して、それぞれの出身者が地元の状況を報告するイベントを定期的に開催したり、各町村を視察したりしている。原発事故後、双葉郡の住民は各地に避難してしまい、互いにつながる機会が途切れてしまった。たとえ住むことができなくても、双葉郡とつながっていたい。その熱を大切にしたかった。双葉郡未来会議は現在、20〜40代を中心に事務局メンバーは150人を超える。

避難指示解除が見通せない時期から、民家の後片付けなどのボランティアを実施。

活動のメインとなる「対話」で心がけているのは、否定しないこと。道一本挟んで、帰還困難区域と避難指示解除区域が真っ二つに分かれる。例えばそんな風に、僕たちの身近にはなくてもいいはずの軋轢の種が必要以上に存在する。意見や思いがバラバラだからこそ、お互いに考えが違っても否定せず、それぞれの道を尊重しながら進んでいく必要があるのではないか。時間をかけながらでも、対話を重ねることが重要だと思っている。

病院やスーパーができるよりも大切なこと

2017年4月1日、故郷の富岡町は重要なスタートラインに立った。帰還困難区域を除いて、避難指示が解除されたからだ。ほぼ同時期に役場の本庁舎が業務を再開し、スーパーなどが入るショッピングセンター「さくらモールとみおか」もオープン。その半年ほど前には、JR常磐線・富岡駅が再開通していた。

再開通した常磐線・富岡駅。

そして、避難指示解除から1年が経った。帰還した住民は約450人。震災前の約1万6000人の3%ほどだ。解除はされたが、これから帰還者数が飛躍的に増えることはないだろう。帰らないことについては「インフラがなくて不便」「放射線が怖い」といった理由をよく耳にするが、一番大きいのは避難先での生活が落ち着いたことだ。家を建て、子どもも学校に慣れた。それが本音だろう。

でも、悲観しているわけではない。帰還を決断した人は主に高齢者が多いが、彼らはある種、”ここで一生を終える”という決断を下したわけだ。終の住処を自分で選ぶことができる。これは非常に重い決断だし、病院やスーパーができること以上に大きな前進だと思う。

一部地域の避難指示解除を前に、2017年3月31日夜から4月1日午前0時にかけて、竹灯りを使った追悼と感謝のセレモニー「富灯り」を開催。

一度町そのものが汚染され、人が立ち入ることすらできなかった場所で、生活が動き出す。「◯◯人しか戻っていない」のではなく、「これだけの人が来た」と考えたらどうだろうか。7年前を思えば、信じられないような光景だ。町の空気が変わり、何かが動き出す鼓動のようなものが、僕には聞こえる。

「この町をなんとかしたい」。最初は何もできなかったし、今でもやれることは限られる。でも、7年かけて一歩ずつ進んできたら、先に見える景色が広がってきた。できることも少しずつ増えてきた。「なんとかしたい」という思いは、どんどん強くなってきている。

ーBeyond2020 私は未来をこう描くー

切り取られた”今”ではなく”過去と今”を伝える

2018年夏、富岡町内に「ふたばいんふぉ」という施設をオープンする。双葉郡8町村の情報発信の拠点として、原発事故後の足跡を振り返る展示や、地元住民が制作した雑貨などの販売スペース、カフェなどを設ける予定だ。

今後この町には、原発事故の歴史を学ぶために国内外から多くの人が視察に訪れるだろう。そのときに、「福島」という言葉の捉え方や響きがネガティブに受け止められないようにしたい。すでに福島から一歩外に出れば、「原発事故」というイメージが世間には植えつけられてしまっている。

マスコミの影響も大きい。数時間だけ取材して、山積みになっているフレコンバッグ(除染廃棄物用容器)を映しながら「福島はまだこんな状況です」などとレポートする。冗談じゃないよ。確かにそういう側面もあるけど、進んでいる部分もある。そう声を大にして言いたい。

だからこそ、地元の自分たちが発信する情報こそリアルで、意義があるものだと思っている。それが、最も説得力があるという思いからだ。

写真や資料で過去を振り返られる展示スペースを設けるのも、そのためだ。視察で切り取られる風景は”今”の姿だけ。でも、7年前からワープして一気に今の状態にたどり着いたわけではない。例えば数年前に除染作業がピークを迎えていた頃、主要道路は連日の大渋滞で、何千人という数の作業員が毎日汗を流していた。そういう段階と積み重ねの上に、今がある。そのことを書き残しておきたい。

双葉郡未来会議では、8町村の住民が集まり情報交換や議論を重ねている。

自分はそれを、富岡町だけでなく双葉郡全体でやりたかった。未だ全域で避難指示が続く大熊町と双葉町。2つとも特定復興再生拠点区域(※3)の対象エリアが決まり、5年後をめどに避難指示が解除される見込みとなっている。大熊町では2018年4月から、放射線量の低い一部地域で準備宿泊が始まる予定だ。ただ、ここから先はすでに解除された市町村以上に行政や住民間の合意形成が難しいはずで、はるかに険しい道のりが待っていることだろう。時間が経つほど、避難先の暮らしに慣れて帰還しない人も増えていく。

だからこそ、双葉郡全体でどうつながり、一緒になって福島の今や僕ら住民の思いを発信していけるか。双葉郡未来会議を通じて、各町村に仲間をたくさんつくることができた。今、住民たちのインタビューをまとめた証言集「ボイスアーカイブ」にも取り組んでいる。アイデアを持ち寄り、協力しながら少しずつでもやっていくしかない。そう覚悟を決めている。

この地域で命をつなぐということ

僕には、とても楽しみにしていることがある。かつて人が住めなくなった町から、新たな命が生まれることだ。これは、そう遠くない将来に訪れるだろう。

富岡町と浪江町などでは、2018年4月から小・中学校が再開する。最初は生徒数が少ないだろうし、避難先から通う子も多いだろう。でも、少なくともここで働きながら、子どもを育てられる環境ができた。やがて、この地域で子どもを産む人も出てくるだろう。そして子どもは、地元の幼稚園、小学校へと進学する。そんなごく普通の命のサイクルが生まれることは、避難指示の解除以上に大きな転換点になると思う。近い将来、そんな光景を目にすることができるのではないか。

2017年にオープンした「さくらモールとみおか」

震災と原発事故から約20年後、2030年の富岡町を想像してみる。人口は元の約1万6000人には戻らないけど、2000〜3000人の小さな”村”のような1つの自治体として、自立的に機能できるような状態になっていてほしい。

当面は、廃炉関連ビジネスに経済的に依存させざるを得ない状況が続くだろう。その一方で、なるべくそれに頼らずに、自立できるような産業や生業を増やしつつ、将来的に税収をベースに行政機能を維持できる見通しがつくのか。あるいは単体では難しいのなら、周辺町村との合併の選択肢はあり得るのか。そういった議論が出てくるだろう。

僕たちの役目は、そんな数十年後の未来にバトンをつなぐこと。何十年先になるかわからないが、廃炉も終わり、自治体としてまた自立できるようになる未来に向かって、できることをやり続ける。

そうやって紡いだ糸が、例えば50年後にそこに住む人たちのアイデンティティ・存在意義になっていてほしい。「父ちゃんや、ばあちゃんたちが頑張ってくれたから、今がある」「だから、それを引き継いで頑張ろう」。途方もない先のことでゴールはまだ見えないけど、今を生きる自分たちの思いが、そんな風に次世代へと引き継がれていってほしい。

「富岡は負けん!」に込めた思い

本当にみんな大変でつらい思いをしてきたからこそ、少しでもみんなの笑顔が見たい。だから、富岡町や双葉郡のためにやれることは何でもやりたいし、首を突っ込まないと気が済まない。何より、同じ思いをもった地元の人や隣の町の人たちと、一緒に新しい地域をつくっていくことに、大きな喜びを感じてもいる。

一度すべての道が閉ざされ、それでも細い糸を紡ぎながら、ここまでなんとかたどり着いた。あきらめずに一歩ずつ進んでいけば、昨日とは違う明日が待っている。これは自分にとって、揺るぎない自信となっている。

あの日、津波で亡くなった方達がいる。そして、その何倍もの人たちが震災関連死(※4)で亡くなった。自分の親父も、3年前に避難先で亡くなっている。いつも自分の行動の根底にあるのは、そういう人たちに対して、生き残った者達が「なんとかするよ」という姿を見せ続けること。「富岡は負けん!」には、そういう意味も込められている。

※1 警戒区域、緊急時避難準備区域、計画的避難区域の3区分
※2 帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域の3区分
※3 帰還困難区域の一部に整備する住民の居住区域
※4 地震や津波などによる直接的な被害ではなく、その後の避難生活での体調悪化や過労など間接的な原因で死亡すること